【山田小太郎先生】昭和15年
出版者   学仏会
出版年月日 昭和15
p3【山田小太郎先生】昭和15年
〔画像〕p3【山田小太郎先生】昭和15年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1058229/1/3
  六十余年前(中津)市中ノ漢學塾ニ入リ
  初メテ四書等ノ素讀ヲ受ケ
  漢學講讀ノ門ニ入ル……
市中は中津を指すものに相違ないが、
何塾であつたらうか、
いろいろ各方面を採訪もし照會もしたが、
結局橋本塾から大久保塾へと、
時期を異にして入門されたことが、
始め中津の黑澤覺治氏から御報知があり、
其後に同じ頃一所に就學された、
從兄弟たる了戒晉作翁の御話で確かめられた、
その入塾の最初は七八歳頃であつたらしい。
 依つて此二塾に關する記事を
 下毛郡敎育會編纂の「下毛郡史」から摘錄する。
 「橋本塾は中間町に在り中津藩儒官
  手島物齋の弟鹽巖の主宰する處なり、
  鹽巖出てゝ橋本氏を嗣き
  早く山川東林に學び又熊府に遊學、
  後中津に歸り進修館敎授に任ぜらる。
  癈藩後自ら誠求め堂を再興す。
  明治十五年五月病で家に歿す享年六十七、
  鹽巖長身赫顔頗る威容あり、
  性最も謹巖剛直
  常に詩歌文章を以て末技となし、
  專ら窮經講史を尚ひ實用を以て主となす」
この最後の「詩歌文章を以て末技となし」以下は、
山田先生の講學精神の萌芽を培つたものと思はれる。

更に大久保塾に就ては
「塾は大久保麑山通稱逕三の經營する處、
 業を叔父野本白巖に受け夙成を以て名あり、
 又劍馬槍弓の術を習ふ、
 後三百間砲臺守隊長及進修館助敎となる、
 (明治)十八年八月歿享年六十一、
 人となり溫厚篤實
 親に事へて至孝なり、
 家甚だ貧困なりしかとも、
 父翁酒を嗜みたれば、
 供張一日も缺きたる事なし、
 其子弟に接するや溫顔にして疾言せず、
 諄々として誦讀を授く
 屢々其窮乏を救へりと」
とある、この塾に於ける感化も、
先生の生涯に相當色濃く
あらはれてゐるやうである。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1058229/1/18
 再度の郡立中津中學(片端中學) p41-45/591
https://dl.ndl.go.jp/pid/1058229/1/41
筆の序てに明治十九年の三月に卒業した生徒は、
古門林太郎、鈴木辨次郎、大江達三郎(以上物故者)
末廣房市氏と自分位なものである、
更に記憶に殘れるものは、
該中學に二學年の高等科があつたことで、
昨年物故された元中津市長の中里直淸、
梅津春五郎、水島吉次、宇都宮仙太郎(舊姓武原)
諸氏がその生徒であつた。

當時の校長は大久保塾を開いて居られた
大久保麑山氏で漢學を受持ち、
首席敎諭は中里文太郞氏で國語を擔當、
山田先生は英語、敷田傳吾氏が數學
外に三木・小原の兩氏、
漢學の補助に校長の息(大久保)恂氏、
理化の大江春水氏、
經濟は石野孝太郎氏、
博物と歷史は川崎松次氏、
簿記と英語は
佐々木勇太郎氏(前南海電鐵社長)であつた。
 ―略―
猶ほ當時の生徒は右の外
鈴木恒三郎、磯村豊太郎、矢野目孫一氏等であつた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1058229/1/43
  扇城學舎  p51-
前記の明治十九年四月の勅令は實に寝耳に水であつた、
それに依つて中津中學が癈校になり、
在學子弟百餘名は全く修學の前途を
塞がれてしまつた、
そこで舊職員二三氏は「・・・」
私立中學扇城學舎を設立して、
これらの癈學生徒を収容したのであつた、
先生は其發起人の筆頭であつたので、
推されて舎長兼講師となつた、
https://dl.ndl.go.jp/pid/1058229/1/51
幸ひ校舎は舊中津中學の校舎を
其儘用ひることになり、
同時に書物器具等も借用出來たから、
差當りの授業には不便はなかつたが、
經營資金とて別に準備してないので、
僅かに授業料を以て校費を支辨し職員は概ね
「勞力義捐」であつた、
其人々は
小原多喜三、大江春水、
大久保恂、佐々木勇太郞、中里左吉郞諸氏で、
此當時の學生は百名餘に上り、
大部分は無論中津中學に學んで居つた人達で、
其内二人の女性がまじつてた、
重松重治さんの御話では、
扇城學舎は、山田小太郎氏といふ英語の先生で、
偉い方がやつて居ると聞いたので、
或人の紹介で入學したのだとのことである、
やはり同舎の學生であつた
上田欽策さんは現在中津蠣瀨町で、
醫業を營んで居られる、
その談片を左に掲げる。
 ―略―
猶ほ當時扇城學舎で學んで居つた、
女性の一人である生田やす子さん
(中津市新魚町住)の御話を次に掲げる。
「私共は姉二人が東京の高等師範に入學したので、
 是非上の學校に入りたいと思つて
 始めは福岡の女學校に入る積りでしたが、
 其内中津に扇城學舎が出來ることになつたので、
 自分等も入學したいものだと思ひまして、
 上田辰衛さまに御願して其御骨折りで
 漸くはいれました。
 十六の歳でございます、
 ―略―
https://dl.ndl.go.jp/pid/1058229/1/52
昭和十五年一月五日印刷
昭和十五年一月十日發行 非賣品
編 者 井坂 秀雄
發行者 草野忠右衛門
    東京市麴町區一番町四ノ二
印刷所 大黑屋印刷所
印刷者 羽田 政勝
    東京市京橋區月島通五ノ八
發行所 學佛會
    東京市京橋區銀座西一ノ一
    永樂ビル内
    振替東京一五三一四一番
https://dl.ndl.go.jp/pid/1058229/1/588
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【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年08月23日 06:30
<大久保系圖:原本>p21~p22[67《長女 セツ》~73《二男 格》]
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2015年05月07日 08:13
<大久保系圖:No.09>67《長女 セツ》~73《二男 格》※別府 格
71《長男 恂》※大久保 恂
     文久元年九月二十三日生 ※1861年10月26日
     藩黌舘ニ學ビ
     十七歳ニシテ ※明治11年(1878)
     家督ヲ繼ク
     二十歳ノ時  ※明治14年(1881)
     京都ニ遊學シ
     村上佛山ノ門ニ入リ
     漢學ヲ學ブ
     明治十八年(1885)
     父ノ病ニヨリ歸郷シ
     助教トシテ
     中津中學校ニ教鞭ヲ取リ
     又
     父ニ 代テ塾生ニ代講ス
     二十六歳ノ時 ※明治20年(1887)
     大阪ニ出デ
     次デ上京シ
     獨學ヲ以テ英學ヲ修ム
     年餘ニシテ
     〔パーレー〕ノ萬國史ヲ讀破シ得ルニ至ル
     人 皆 以テ 天才トナシ
     将来ヲ嘱望サル
     明治二十四年(1891)
     肺患ニ罹リ
     同年(1891)十一月八日
     遂ニ起タズ
     享年 三十一
     中津 大法寺ニ葬ル
     法號 守法院遊山日恂居士
     中津藩士 逸見栗藏ノ長女
     武子ト婚約アリシモ
     遂ニ果サズシテ逝ク
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