【空の怪奇】昭和8年
著者    阿緒木浄 著
出版者   日本空の旅社
出版年月日 昭和8
 銀狐を巻く夫人となつて
 幸福に翼を放れた雲井孃
――そのかみは鯨ほうりし若き手に
  孫を抱きて舟唄をうたふ
潮風にやけた顔、
濱邊に立つ漁師の娘かと思はるその歌主は
――わが國最初の女流飛行家として――
女性の最前線に働いた雲井龍子――
《今井小まつ》さんが
ものにしたのである。

髪を無雜作に束ね、飛行服に、半ズボン長靴、
マルデ男だつた姿の彼女は、
飛行家を志すとすぐ新進の根岸錦藏君の許へゆき、
油と汗にしみ乍らセツセと働いてゐた。
濱松、靜岡、三保、物珍しい時代だけに、
あちらからこちらから、
航空知識普及のため飛んでくれといふ
申込みを待ちながら――

地方巡回興行?
これが唯一の収入であつたから、
この頃の二人は經濟的にあまり惠まれなかつた。

人生は限りない 轉の連鎖だ、
彼女もまた波瀾に揉(もま)れ通しだつた。

京都府下に生れ、
女學校卒業後二年目の廿歳のとき結婚した。
旦那さまと共に奉天に渡つた。
こゝで藥屋が營まれた。
p86【空の怪奇】昭和8年
p86【空の怪奇】昭和8年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1214938/1/86
商賣向きでない彼女は、
よく筆をとつて土地の新聞に
「覆面の女」のペンネームで評論ものや、
小説やらを書いてゐた。
そのうち男の子が生れた、
家庭生活三年、
漸く店に坐つてゐる生活が嫌になつた彼女は、
夫と子を殘して單身内地へ歸つてしまつた。
夫や親戚から復縁話が出てもガンとして聞きいれずに、
身を空界に投ずることを決意して
根岸君の所へころげ込んだのだつた。
雲井龍子――と名のりをあげて、
(昭和)十三年十一月に三等飛行士がパスした。

そのころ奉天の彼氏は、
藥屋をやめて岡山縣へ歸つてゐた。
子供は「ママが飛行機で歸る」
と近くの丘に立つて、
毎日々々東の空を眺め、
ママよ歸れと念じてゐたさうである。

翌(昭和)十四年七月十二日に
二等の試驗が合格して、
今度こそ郷土訪問飛行をするだらうと、
見知らぬ母を子供は待ち續けてゐた――
事實運命とは計り知られないものである。
それから幾年、
子供はもう中學の三年か四年であり、
彼氏はいま京濱間の某會社に
相當重要な地位を占めてゐる。
考へれば不思議な世の中である。

サテ空界に志してからの彼女、
男のやうな豪膽な性格は
より赤裸々となつて行つた。
二等飛行士になり、
根岸さんが
淸水港の三保に飛行場をつくつたものの、
よい収入は圖れない。
靜岡の御用邸裏に「つばさ」といふバーを開いて、
飛行服の彼女自身がカクテルをつくり、
サーヴィスにつとめ、
客うけもよかつたのだつたが――
今は淋しい思ひ出の一つに違ひない。
根岸さんにそのころ、
新らしい愛人が出來たとか噂されてから、
交渉は必然的に すくなくなり、
またいつか「つばさ」にその姿をみせなくなつた。

そして再び彼女をみいだした――
ときは廣大なお邸、
銀狐の襟巻あでやかな
令夫人としての龍子さんだつた。――
西原借款で有名な
西原龜藏氏の夫人だつたのである。
といふのも姉さんが西原夫人だつたが、
他界されたその後釜に入つただけのこと…。

かうして空界をさよならした彼女は、――
もうキツト落着いた生活が出來るでせう
と語つたと、サウです、半生をみればですネ。
今は、ただ幸福に醉つてゐるんだ、
話もそれでザ・エンドである。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1214938/1/87
航空寫眞と隨筆集 空の奇怪
昭和八年十月廿一日印刷 定價一圓五十錢
昭和八年十月卅一日發行 送料  十二錢
著 者 阿緒木 淨
編輯兼 靑木  潔
發行人 東京市京橋區西銀座八ノ九
    新聞聯合社内
印刷人 小澤仙太郎
    東京市深川區門前仲町一ノ二三
印刷所 永進社印刷所
    東京市深川區門前仲町一ノ二三
發行所 日本空の旅社
    東京・深川・門前仲町一ノ二三
    電話 本所四二八二番
    支社 東京・八王子・萬町一〇
    電話 八王子五五六番
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