【Green port report 7/8月(54)】1996
出版者 成田国際空港広報部
出版年月日 1996
ザ・講演 航空機とマーフィーの法則
日本航空協会・月例後援会より
(株)日本航空技術協会元会長
野田親則
PROFILE
大正6年東京生まれ。
昭和14年、東大工学部航空学科卒。
第2次世界大戦中は短期現役、
予備役即日召集、
嘱託として陸軍航空研究所に勤務。
昭和18年末、
満州飛行機製造(株)に復帰、
昭和21年内地に引き揚げ。
昭和32年日本航空に入社、
昭和58年専務取締役任期満了。
平成5年まで常勤顧問。
昭和52年~64年の間、
(株)日本航空技術協会の会長職を務める。
発端は米空軍のエド・マーフィー大尉
―略―
軍用滑空機のテストで過誤の例
―略―
愛国九州号に披露飛行に同乗
―略―
満洲飛行機製造(株)での経験
陸軍から解放されて、
奉天の東方の郊外にある
満州飛行機製造(株)に帰任したのは
昭和18年11月のことであった。
設計部(林元部長)所属となった。
小生の職は研究課長だった。
生産ラインでは97式戦闘機(キ27)が
新鋭機の座から降りて、
同じ生産ラインを使用して
2式高等練習機(キ79)が流れていた。
次期の新鋭戦闘機の生産も計画中であった。
キ79はキ27のエンジンを小型のものに換装し、
重量が減ったために、
前方に移動して重心位置を維持するなどが
主要な変更で、
日産5機、月産150機程度の量産が行われた。
使用エンジンのハ-13甲も自社生産であった。
キ79甲は単座、
キ79乙は複座で従来の操縦席の後方に
第2の操縦席を増設したものであった。
トラブルはキ79乙の試験飛行の際に起こった。
複座の前席に最年長のテストパイロットが乗り、
後席は空席として飛行中に操縦桿が何物かに
引っかかったようになって
十分手前に引くことができなくなった。
片手で操縦桿を握って位置を保ちながら、
もう一方の手を下方から後席へと伸ばして
探ってみると、
後席の背当てが前方に倒れて、
後席の操縦桿の動きを
邪魔していることがわかった。
倒れた背当てを上方にはね上げると、
背当てはしばらくの間
後席後席の操縦桿を邪魔しない状態となるが、
やがてまた倒れかかると
操縦桿を手前に引けない状態に戻るのである。
結局、パイロットは2本の手で自分の席の
各種のコントロールを操作しながら、
片方の手で後席の背当てを巧いタイミングで
はね上げながら、着陸を果した。
問題の原因は、
後席の背当ての上部を
胴体のフレームに固定するのが
不完全であったのか、
飛行中の振動でボルトが緩んで抜け落ちたか、
などが想像できる。
B-29によって工場群が爆撃
奉天の東飛行場地区に集中していた
満州飛行機製造の工場群は、
終戦の前年昭和19年12月7日の昼間に
中国の奥地から出発した
数十機のB-29隊に爆撃された。
12月7日は米国のパールハーバー記念日である。
工場は大至急各地に疎開した。
検討されていた新鋭機の生産は
キ84(4式戦闘機)と決まり、
会社はハルピンの工場で生産を行うことを決めた。
昭和20年春には完成機が生産ラインから
出る状態になった。
その後、
キ84の満州飛行機製造の4号機が、
キ116に改造され、
最初のテスト飛行には
設計部の一員として立ち会った。
キ116は離陸後
飛行場から離れて機影も見えず
爆音も聞こえない状態だったが、
やがて工場のかげの辺りから爆音が
かなり大きく聞こえた。
そして、
突然工場のかげから機影が現われると、
エンジンが止まって着陸滑走となった。
テストパイロットの長繩さんは
落ち着いた顔つきで
プロペラの停まった機から降りて、
エンジンのスロットルレバーが無反応となって
独りでにエンジンが全力運転になるので、
点火スイッチを切って、
しばらくすると速度が落ちるので
また点火スイッチをオンにする、
エンジンがすぐ全力運転になる、
ということを繰り返していたことを告げた。
調べてみると、
推定のように
エンジンの気化器の入力レバーの結合部で、
操縦席のエンジンレバーからの機構が外れて、
気化器側はフリーの状態となっていた。
気化器レバーは出力を上げる方向に
スプリングが作用しているので、
出力は上がる。
出力を下げる手段は
点火系統の電気を切ることが唯一の方法となる。
トラブルの要点はなぜ、
どのように気化器入力レバーの部分で
結合が断たれたかである。
気化器レバーとパイロットの操作系との結合部は、
気化器がエンジンに固定されており、
エンジンは緩衝装置がゴム類を介して
機体に対して若干の相対運動があり、
そのためにボールジョイントを介して
相対運動を逃がしている。
ボール状の頭にボルトのネジ部が
一体となったような部品を、
気化器入力レバーの頭部の孔に挿入する方向が
逆であったのが、
連結を分離した理由であった。
正規の方向に挿入して組み立てれば、
ネジ込みの球面(凹面)の蓋が取れても
関係が断たれることはなく、
若干のガタが生ずるに
とどまるはずである。
このテスト飛行の後に、
ソ連(当時)が宣戦布告して
ソ満国境を突破するまで
あまり日数はなかった。
どのような飛行試験が行われたか
知らされていなかった。
最 後 に
前述のJ.P.スタップ大佐の記者会見での言、
すなわち
「マーフィーの法則を固く信じて、
不可避とされる過誤が発生しないよう
防ぐ努力を粘り強く実行する」
に尽きる。
どのような過誤が発生の可能性を持つかを
網羅的に洗い出すのが第1歩となる。
次に過誤を防ぐ方法を考える。
一般的には、
間違えることができないようにできないか、
途中で正しいことを確認することができるか、
などを検討して
過誤を防ぐ方法がないという部分を
狭めていくことを意味していると思われる。
”誰かが間違いを犯すことは、
防ぐことができない“
と諦めることを勧めているのではない。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2889217/1/10
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