【海運人物譜 第4集】昭和41年(1966)
著者 堀卯太郎 著
出版者 国際海運新聞社
出版年月日 1966
山尾安史
川崎汽船外航定期貨物会社の
常務取締役の山尾安史は、
野球に強い和歌山高商の出身である。
しかも学生時代は
その野球の選手だったというだけに、
いかにもスポーツマンらしい
キリッとしたところがある。
五尺六寸(171cm)、十八貫(67kg)
というその体格も
均斉がとれていて立派である。
さぞ女性にはもてることだろうと想像されるが、
本人も「銀座裏へでも行けば……」
とまんざらでもない口振りであった。
その内に行こう―ということだったが、
それはその場の口先だけで、
まだその「もてっ振り」を
一度も拝見したことはない。

兵庫県は明石の生れで、
大正四年十二月-ということだから、
今年の十二月で満五十一才である。
川崎汽船の取締役になった
昭和三十七年十一月には、
まだ四十七才になっていなかったわけである。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2523787/1/230
若い重役であり、
それだけにまた、
川汽系の若々しさを
代表しているようなものである。
戦後川汽の社格の上昇は見事なものだが、
その急速な発展の秘密は、
こういうところにあるのかも知れない。
もっとも、
社長の服部元三はまだ六十一才で、
社長になった
昭和二十五年十一月には四十五才であり、
取締役になった
昭和二十二年十二月には四十二才だったわけだ。
それからみると必ずしも若いとはいえないが、
事業にはやはり若さというものが必要である。
老令の経営者にもむろんそれ相応の長所があるが、
とかく新機軸や冒険を危ながり、
ともすると出遅れるキライがある。
川汽系の急速な発展の実績は、
若さもまた貴重な宝の一つだ
ということを教えている。
彼が学校を卒業したのは昭和十二年、
その年日華事変が勃発している。
川崎汽船に入社し、
さらに
昭和十七年四月船舶運営会が設立されると
運営会に出向し、
民営還元が実現し、
運営会が実質的に解散になった
昭和二十五年三月までいた。
運営会生活が何と八年の長きにわたった。
しかし、
そのためこの立派な体格にもかかわらず、
唯の一度も兵隊にとられることがなかった。
輸送という重要な仕事をしていたからであった。
その意味では、
運営会は決してマイナスではなく、
むしろ彼にはプラスになっていた
というべきであろう。
川汽でも入社いらい営業だったし、
運営会でも渡辺一良輸送部長の下での
配船課に所属していた。
その時机を並べていたのが
新和海運常務から
日和産業海運社長になっている石原重二郎、
商船三井の営業部長から
商船三井近海の常務になった綱頭正夫などであった。
昭和二十五年四月に川汽に復帰して
東京支店営業第一課長、
昭和二十六年三月には東京支店営業第三課長、
昭和二十六年六月に営業部副部長代理、
翌昭和二十七年八月桑港駐在員、
翌昭和二十八年十月桑港首席駐在員となり、
昭和二十九年五月帰国して東京支店勤務、
昭和二十九年七月営業部副部長代理、
昭和三十年十月営業部副部長、
昭和三十一年大阪支店長となり、
昭和三十三年紐育支店長となって武本成行と交替、
昭和三十六年七月に帰国して貨物部長に就任、
昭和三十七年十一月の総会で取締役に選任され就任、
昭和三十九年八月に
川崎汽船外航定期貨物株式会社
創立と同時に新会社に移り、
常務取締役になって現在にいたっている。
以上の略歴でも明らかなように
彼は営業畑で終始したのみでなく
桑港二年、
紐育二年、
計五年の海外生活もあり、
最初から幹部たるべきコースを順調に歩んでいる。
いまや海運生活二十九年、
四年前の二十五年目に重役になったとしても、
それはかねて予定されていたものであって
少しも不思議はないわけである。
同社の次代を担うホープの一人であること
いうまでもない。
元来がスポーツマンだが、
いまはゴルフ、ハンデイは十八、
囲碁、将棋はやらぬが、
麻雀は先生格、
酒はむろん相当なもの、
一度銀座裏へでも現われると、
近代的なきれいな遊び方をするらしい。
ダンスは元よりお手のもの、
溜息をつく娘っ子も多いと聞くが、
まだ実際をみたわけではない。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2523787/1/231
藤谷正志
川崎汽船の常務取締役、
定航担当の藤谷正志は、
川汽外航定期貨物会社へ移った
山尾安史と入社が同じで、
ずーっと一緒に働いて来たし、
よく遊びもしたものだが、
働いていても相手が切れものなので、
うっかりしているわけにはいかず、
遊ぶ時には相手ばかりモテて、
随分歩が悪かった―とこぼしていた。
その代りに人間的には練れて、
少しぐらいのことでは
驚かない腹のすわった人間になったようである。
損ばかりしているようにみえて、
実のところは大きな利益を受けていたことになる。
全く何が修養の糧になるかは、
わからないものである。
彼は広島県の山奥で生まれ、
大分高商を昭和十二年に卒業した。
飯野海運の藤野精四郎も大分高商の出身だが、
彼よりも三年の先輩である。
昭和十二年といえば、
日華事変の起きた年で、
https://dl.ndl.go.jp/pid/2523787/1/185
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