【早稲田ラグビー六十年史】昭和54年(1979.3)
著者    早稲田ラグビー60年史編集委員会 編
出版者   早稲田大学R.O.B倶楽部
出版年月日 1979.3
 第1章 草創時代 p21-24/198
大正6,7年度
[ラグビー部創設]
早稲田大学ラグビーの創立は、
大正7年11月7日である。
今年創部60周年を迎えたことになる。
 ―略―
https://dl.ndl.go.jp/pid/12168261/1/21
[北越館グループ]
当時独法科に在籍の同志社中学出身
《西村聡》が戸塚球場上の北越館に下宿していた。
そこに同級生である《岩崎粂雄》が毎日のように
ぶらっとやって来た。
《岩崎粂雄》は慶応普通部出身であり、
多少ラグビーの経験があるので、
時には話題にのぼっていたことが想像される。

私大一方の旗頭といわれる早稲田に
ラグビーのないのはおかしい。
お互いにラグビーを知らぬわけではなく、
一つ同志を集めて始めようではないかと
話は次第にエスカレートしていった。
そこで《西村聡》は
同志社中学の一年先輩である
《井上成意》や、
兄が三高選手だった《国光素介》等に
相談を持ち込んだことから、
とんとん拍子に進展していったのである。

その中で年長である《井上成意》は
熱心に陣頭に立って奔走した。
同志社の知友から古ボール、
色あせたジャージーをもらい、
土台作りに取りかかった。

[栄進館グループ]
これとは別に、
北越館の目と鼻の先にあった栄進館には、
《大久保謙治》をはじめ
《名和野秀雄》、
《大西次郎右ヱ門》、
《黒沢昌弘》、
《瀬尾俊三》らが下宿していた。
彼等は”牧羊クラブ“と称して
草野球などを楽しんでいたようである。

その中の
《大久保謙治》は ※下記ブログに記載
ハードルの選手として名を知られ、
その弟の《大久保次郎》は ※下記ブログに記載
同志社の有名な選手だったことから、
ラグビーに関心はなくわない。
これもまた、
弟からボールをもらって蹴っていた。

《黒沢昌弘》が、蹴り始めたのは
北越館のグループより、
むしろ栄進館グループの方が早かったように思う、
といっている。

[倶楽部結成と部員の募集]
 ―略―
これを見て馳せ参じたのは、
台湾台北一中出の
《磯部秀景》、
《角谷定正》、
《小原兵蔵》の3名ぐらいだった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12168261/1/22
彼等は在学中に慶応OB《松岡正男》から
ラグビーの手ほどきを受けたということである。

試食会もそれなりの効果はあったが、
この程度ではなんとしても人員不足なので、
さらに勧誘して回った。
その中でも《瀬尾俊三》は熱心だった。
集まって来たのは
《服部》、《石丸》、
《大町》、《佐東》たちである。

[体育会加入の届出]
《井上成意》は、前記の遺稿にある通り、
体育会の主な人々に予め
加入の了解を取付ける工作を進め、
部員も30名を越した頃を見計らって、
大正7年11月7日に、
次の委員連名をもって加入を届け出た。
主将 井上成意
委員 大久保謙治、国光素介、勝丸信三、
   角丸定正、峯 波雄。
〔写真〕部創立当時の部員(大正7年秋)
 p23【早稲田ラグビー六十年史】昭和54年
p23【早稲田ラグビー六十年史】昭和54年
https://dl.ndl.go.jp/pid/12168261/1/23

[初の三高戦]
たまたま、このシーズンの正月に
三高が慶応との定期戦のために
上京する予定であることを伝え聞き
これを機に手合わせしたいと考えた。

幸いに名和野は三高の主将《谷村敬介》と
京都下京の第二尋常高等小学校の
同級生だったのを奇縁として、
谷村に招請状を送ったところ
間もなく承諾する旨の返事に接し、
一同大いに喜び練習に熱が入るようになった。
速成ではあるが、
《大久保謙治》の弟《大久保次郎》に、
1週間のコーチを受けた。

まだ、ジャージーを持っていなかったので、
早速京都の水野運動具店に依頼して
白地にエンジの横縞を入れたジャージーを作って、
この第1戦に備えた。
当時1着2円50銭だったという。

さて、試合は大正8年1月7日戸塚球場で挙行、
その経過は記録なく定かでない。
しかし、当日は雪解けの重いグランドで
結果は15対0とまずまずというところであった。
三 高    早稲田
岩 田 FW 勝 丸 ※勝丸信三(?)
 梁     名和野 ※名和野秀雄(大正11)
山 本    野 瀬 ※野瀬忠治(竹内)(大正12)
奥 山    吉 原 ※吉原万治(大正13)
滝 口    小 原 ※小原兵蔵(?)
一 井    佐 東 ※佐東福次郎(大正11)
熊 野    岩 崎 ※岩崎粂雄(大正12)
城 田    服 部 ※服部憲照(大正11)
円 下 HB 井 上 ※井上成意(大正10)
佐 伯    黒 沢 ※黒沢昌弘(大正12)
鶴 原 TB 磯 部 ※磯部秀景(大正13)
谷 村    石 丸 ※石丸五郎(大正11)
坪 内    大 町 ※大町 清(大正12)
大 村    大久保 ※大久保謙治(大正11)
安 西 FB 角 谷 ※角谷定正
            角谷清三郎(大正11)大商
   15-0
  大正8年1月7日
   戸塚球場
 レフリー 塩川潤一

試合の後、泥と汗を流すため、
風呂屋に案内しようとしたところが、
生憎この日は7日正月といって
商家は休む風習があり、
銭湯も休業である。
已む無く道場わきの井戸で体をぬぐい、
高田牧舎のミーテイングに出席したが、
三高の方々には寒中まことにお気の毒なことに
なってしまった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12168261/1/23
  卒業生一覧表 p192-194/198
 p192 【早稲田ラグビー六十年史】昭和54年
p192 【早稲田ラグビー六十年史】昭和54年
https://dl.ndl.go.jp/pid/12168261/1/192
早稲田ラグビー60年史
昭和54年3月31日
発行 早稲田大学R.O.B倶楽部©
編集 早稲田ラグビー60年史編集委員会
   東京都中央区銀座1-8-15
   陶雅堂内
   電話03-567-0071
印刷 大日本印刷株式会社
   東京都新宿区市谷加賀町1-12
https://dl.ndl.go.jp/pid/12168261/1/196
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2015年05月15日 07:38
<大久保系圖:No.12>
75《三男 大久保慎二》~78《長女 大久保品子》
祖父 大久保麑山 文政8年12月11日生
         ※1826年1月18日
父  大久保慎二
母  大久保利根子
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
75《三男 慎二》※大久保慎二
     明治四年一月二十九日生
     ※1871年3月19日
   妻 利根子
     茨城縣下總 古河藩主 土井子爵ノ分家
     土井利治ノ長女ニシテ
     大正十年(1921)一月十日朝
     享年 五十四
     昭和二十三年(1948)七月四日 p25/28
     老衰ノ為歿
     享年 七十八才
     明治二十九年(1896)生
     大正十一年(1922)
     早稲田大學ヲ卒業
     三越ニ就職
     運動具部主任
     大正十二年(1923)
     関東大震災後 三越を去り
     日本活動寫眞株式會社へ入社 後
     宣傳部長、営業部長を歴任
     大東亜戰後 仝社を去り
     アドボードKK、常務取締役
     外 一二の會社を歴任す
     松浦浪子と結婚し
     長女 満里子は、
     ハワイ二世ジェリー大村と結婚し二男あり
     世田谷区世田谷町一ノ二三八に居住
     昭和二十七年(1952)三月十九日
     胃癌にて歿す
     享年 五十六才
     戒名 景徳院恭山宗謙居士
     京都 東福寺 即宗院に葬る
77《次男 次郎(昭和二年 博司と改名)》
     ※大久保次郎:大久保博司
     明治三十一年(1898)四月二日生
     大正十三年(1924)
     京都 同志社大學卒業
     學生時代 ラグビー選手
     卒業二年前よりその主將を務む
     卒業後
     横浜ホテル、ニューグランドへ入社 後
     用度課長、
     昭和十七年(1942)
     仝ホテルを去り
     箱根強羅ホテルへ
     取締役支配人として招聘され
     昭和二十五年(1950)に
     日活株式會社
     日活ホテル建設の為め仝社へ入社し
     開業後
     支配人を奉職
     昭和九年(1934)四月
     ホテル・ニューグランド 在任中
     植松登志子(三十二才)と結婚す
     長男 武司(昭和十三年九月九日生)
       ※大久保武司
     長女 道子(昭和 十年七月七日生)
     昭和二十八年(1953)
     現住 豊島、千川町の家に移る
     昭和三十年(1955)四月
     仝家を購入
     八月 登記す
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇