【同志社ラグビー七十年史】昭和58年
出版者 同志社ラグビークラブ
出版年月日 1983.12
[ラグビーチーム勃興期]
大正後期になると京都中心であったチームが
次第に他の地区にも浸透し創部する学校が増えて来た。
大正5年普通部を卒業した
《井上成意》と《西村聡》は部員ではなかったが
全校生徒が大なり小なり
ラグビーに親しんでいたので
早稲田大学へ入学した後にその魅力が忘れられず、
勇壮きわまる競技を是非とも早稲田に創り、
長年関東で孤立していた慶応と対抗したいものと念願し、
最初は倶楽部組織から発足し
大正7年の秋に正式なラ式蹴球部を誕生せしめた。
同志社中学時代に大毎主催の大会で活躍していた
《原槇真二》、《兼子義一》、《片岡春樹》が
早稲田に入学し、
京一中、京一商からのラグビー経験者の
京都勢の入部者を加え強力なチームに成長して来た。
明治39年に野球試合が原因で
十数年の間確執状態にあった早慶戦を大正11年の秋に
ラグビー戦の決行により、
早慶和解の楔を打ち込み
遂に大正14年の野球戦を始めとする
あらゆる競技再開の導火線とする
大きな役割をつとめた裏には
同志社で楕円球に因り
スポーツマン・シップを培われた
多くの若者達の情熱の結実であると
言っても過言ではなかろう。
早大ラ式蹴球創設時代には、
部員以外に同志社大の先輩である
《露無文雄》や
当時現役の《大久保次郎》らが
コーチをしているが、
大正8年1月の同慶定期戦まで
同志社の現役選手として活躍していた
《諏訪広胖》は、
卒業を見ずにして突如として
京都から姿を消し
早大GBクラブのメンバーに加わり、
早稲田の練習に毎日のように現われて
コーチをしていたという変り者もいた。
外では後に良きライバル校となった
早稲田のチーム造りに傾倒していた者があるのに、
内では冬眠状態にあった大学チームの事情は、
70年の歴史の中で最も判然としない時期でもあった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12172654/1/28
同志社ラグビー70周年史
1983年11月20日印刷
1983年12月3日4発行
編集 同志社ラグビー70周年史
編纂委員会
印刷 株式会社 図書印刷 同朋舎
京都市下京区壬生川通五条下ル
発行 同志社ラグビークラブ
京都市東山区東大路新橋林下町437
福住荘 中村公紀 気付
https://dl.ndl.go.jp/pid/12172654/1/237
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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【早稲田ラグビー六十年史】昭和54年
著者 早稲田ラグビー60年史編集委員会 編
出版者 早稲田大学R.O.B倶楽部
出版年月日 1979.3
大正8年度 [寄り合い所帯]
大正8年度の概況
なお、この記事にGBのハーフ諏訪とあるが
彼は《諏訪広胖》といって
同志社で名の知られたハーフだった。
どのような理由かわからないが、
京都から姿を消して上京し、
毎日のように早稲田の練習に顔を見せ、
コーチをしていたという。
時には早稲田の角帽をかぶっていたこともあり、
身辺のことは判然としないが、
またとないパートナーであった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12168261/1/24
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