【"思い出"さん今日は!】昭和40年(1965)
著者 近畿陸上競技神人会 篇
出版者 近畿陸上競技神人会
出版年月日 1965.9
マラソンとクロスカントリーと
日本オリンピック
渡辺文吉
https://dl.ndl.go.jp/pid/2529493/1/30
大正に入ってクロスカントリー・レース、
別名山野横断競走という
新しい名の競争が浮びあがつて来た。
これも毎日新聞の主催で、
コースは今の十三大橋北詰の川床
(当時両河岸に二軒の十三の焼餅屋があつて、
一方は元祖、一方は本家を名乗つて競争していた。
南詰の本家は深谷家で、
深谷君は北野から一高、東大に進んで
初期の硬式野球で鳴らした)
をスタートして箕面公園の入口がゴール、
百五十人あまりの選手が、
いろんな色どりの姿でどつと飛出し、
その頃北摂一体にかけて
文字通り見渡す限り菜の花畑の中を、
思い思いの近道をえらんで
北え―北えと姿を消して行つた。
まだ夕刊のない時代で、
午後に出た号外によると
愛知一中の田舎片善次君が一番、
さきの井上についで
田舎片(イナカガタ)の名が
子供達あこがれの的となつた。
同じクロスカントリーが
大正四年(1915)、豊中、宝塚間で行われた。
宝塚から山陰線で一駅むこうの生瀬回りで、
ゴールは宝塚少女歌劇場の前、
私は池田の町を金栗さんとしばらく並行して走る
ほこらしい喜びをあじわつた。
途中市岡中学から早大野球部に進んだ
投手の中島駒次郎君、
これも早大でベーブ田中の偉名を謳われた
田中勝雄君らと
中山寺の関所を前後して通過した思い出が、
今もなおありありと瞼にうかぶ。
・・・
当時私は大阪商業の野球選手で遊撃手、
朝日新聞主催の中等野球のはじまる前の年の
大正三年(1914)、
豊中で開かれた美津濃主催の
関西学生連合野球大会で
伊丹中学、京都商業、愛知一中、神戸二中に
勝つて優勝したことがある。
コーチは当時明大の主将だつた中沢不二雄氏、
【日本野球発達史】大正11年
著者 横井春野 著
出版者 美津濃
出版年月日 大正11
第八節 大正三年(1914)
◇關西學生聯合野球大會
美津濃主催の同大會は、
(大正3年)八月一日より五日迄連日舉行した。
參加校二十四校の内、
最後迄殘つたのは、
大阪商業と神戸二中であつた。
六對五を以て、
大阪商業の優勝にきした。
その年の秋(大正3年10月21日)
三高の野球大会では
京都二中に負けたが、
その試合で私は左中間に三塁打して
左翼手の半井修一君を
うしろむきに走らせた自慢話がある。
京都二中の投手は
明大に行つた名投手藤田(故人)
捕手は早大のハードラー大久保謙治君。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2529493/1/31
"思い出"さん今日は!
昭和四十年九月一日印刷
昭和四十年九月十日発行 (非売品)
発行者 近畿陸上競技神人会
印刷所 大阪市大淀区天神橋筋七ノ八
株式会社 エレフアクス印刷所
電話(371)四五一四番六九六五番
https://dl.ndl.go.jp/pid/2529493/1/84
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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【日本全国諸会社役員録 第25回】大正6年(1917)
著者 商業興信所 編
出版者 商業興信所
出版年月日 大正6
合名會社 神戸明礬製造所
神戸市兵庫苅藻通四丁目
電話 本局一八五九
設 立 大正五年十一月
資本金 貳萬壹千五百圓
代表社員 大久保愼二 ※大久保謙治の養父
京都府紀伊郡深草村
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂
2012年07月01日 14:44
大久保慎二[扶桑新聞:社長]
別府三穂三郎[扶桑新聞:編輯]【新聞総覧】
『大河内傳次郎』著者 富士正晴 中央公論社
昭和54年1月20日再版
謙治の父の慎二が毎日新聞記者で、
豊竹呂昇のパトロンであり、
呂昇が京都大阪に来た時など
平安中学にいた謙治に
※京都二中
小遣いをくれたというエピソードからも、
謙治が大学を出てすぐ
新派の俳優になったということにも
何の不自然さも感じないで、
その芸名は何かと空しい調査さえしたのであった。
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