【歌に生き恋に生き】昭和42年(1967)
著者    藤原義江 著
出版者   文芸春秋
出版年月日 1967
可哀相な環さんだと思った。
環さんにはこういう面がかなりあったらしいが、
最後には井上元佶(もとよし)氏という
愛する夫に見守られて息を引き取ったのであるから、
結局は男運に恵まれたというべきかもしれない。
この日本が生んだ世界的プリマドンナの晩年を、
何から何まで心配して見守り、
環さんの死に水まで取ったのは、
環さんの親友である大東学園の守屋園長であった。
今日でも、毎年命日には三浦環会として
追悼を兼ねた後援会が、
守屋さんによって催されている。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2513343/1/112

【三浦環のお蝶夫人 (音楽文庫)】昭和30年(1955)
著者    吉本明光 著
出版者   音楽之友社
出版年月日 1955
〔写真〕山中湖畔、寿徳寺境内にある三浦環の墓、
左側の墓標は母堂永田トワ子の墓。
額いている人物は三浦環の嗣子三浦元佶氏。
(昭和二十三年夏)著者撮影。
p5【三浦環のお蝶夫人 (音楽文庫)】昭和30年
p5【三浦環のお蝶夫人 (音楽文庫)】昭和30年
https://dl.ndl.go.jp/pid/2474035/1/5
わが母 永田トワ子
 安政五年三月六日生
 昭和二十年四月十九日死
 (見性院唯室貞心大姉)
山梨県南都留郡中野村平野、
寿徳院に永眠
https://dl.ndl.go.jp/pid/2474035/1/108
マネージャーの井上元佶君が、
「先生、そのモンペはチンドン屋のようで
 可笑しいからおよしなさい」
と云うのを
「赤くてもとても綺麗じやない、
 私気に入つたわ」と、
井上君の注意に大不服だつた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2474035/1/114
(昭和21年)三月十八日、
三浦さんのマネージャー井上元佶君が来訪して、
二十一日の独唱会のために三浦さんは上京したが、
病気が重くなつてもうひとりでは歩けない。
十六日に山中湖畔を出て来たが、
雪の中を私がおぶつて自動車に乗せ、
お隣りに住んでいる画家の気賀麗子さんに
付添つて貰つて自動車で上京して、
三浦さんの旧友、
守屋東さんが玉川上野毛に経営している
大東学園病院に入つている。
と云う話にびつくりしてしまつた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2474035/1/117
(昭和21年3月21日)
定刻、三浦さんはマネージャーの井上君に
おぶられて楽屋から舞台の袖まで行き、
こゝからお弟子さんの寺脇さんに
介抱されてステージへ出た。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2474035/1/118
昭和三十年七月五日印刷
昭和三十年七月十日発行 定価一二〇円
著 者 吉本 明光
発行者 目黒 三策
    東京都千代田区神田鍛冶町二ノ一〇
印刷者 日出島武男
    東京都文京区元町二ノ三一
発行所 株式会社 音楽之友社
    東京都千代田区神田鍛冶町二ノ一〇
    電・神田(25)八〇五・五二八三
    振替東京一九六二五〇
https://dl.ndl.go.jp/pid/2474035/1/124
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