【経営コンサルタント (474)】昭和63年(1988)
著者    経営政策研究所 [編]
出版者   経営政策研究所
出版年月日 1988-04
 東京商大・大丈夫会
  住友商事副社長
  《秋山富一》
つい先日、「大丈夫会」を開いたら一一名集まった。
「大丈夫会」というのは東京商大(一橋大)を
昭和二八年に卒業した
ラグビー部チームメイトの集まりである。

今回出席出来なかったのは伊丹冨佐雄君と
在米の秋山孟彦・山田成男の両君。
これに昭和五四年に急逝した丹羽喜昭君を加えた
一五名がそもそも「大丈夫会」のメンバーである。

在学中は、何事につけ「おい、大丈夫か」と
互に励まし合った仲で、
卒業後も「大丈夫かい」と声を掛け合って
行きたいということから
「大丈夫会」と命名したものである。

当時は、なにしろ戦後間もなくの食糧難の時代、
本来ならスポーツどころではないところだった。
それを我々は空きっ腹を抱えて走り回った。

なかには、学資から生活費まで、
自らの手で稼ぎ出さなければならない境遇の者もいた。

さらに、ジャージやボールなど用具を揃えるためにも
働かなければならなかった。

そんな我々のエネルギー源は何だったのだろうか。

文字通り泥と汗にまみれた青春、
皆の情熱の全てが一個のボールに
注ぎ込まれた時代だった。

同級だけで、一五名、
これでちょうど一チーム編成出来る人数である。

ほぼ、このメンバーで六年間闘ってきたのだから、
チームワークがよくて当然だろう。
いつでも腹を減らしていた我々の最大の楽しみは、
新宿西口にズラリと並んだ屋台をひやかして歩くこと。
そこには、銀シャリから麺類、おでん、まんじゅうと
多彩な食物が揃っていた。

しかし、我々に手が出せるのは、
p10【経営コンサルタント (474)】昭和63年
p10【経営コンサルタント (474)】昭和63年
https://dl.ndl.go.jp/pid/2205749/1/10
3個10円の今川焼きか、
いもきんとんくらいのもの。
それがどれだけうまかったことか―。

今でも今川焼きに目がないというのも多分、
この時代の影響かもしれない。

当時のメンバーで唯一欠けたのが
今は亡き丹羽喜昭君。
彼は、マネージャーとして、
食糧の調達から用具の手配、
合宿所の世話など裏方を一手に引き受けてくれた。

夏の合宿では、
富浦、沼田、妙高、湯田中、新潟など各地に行ったが、
その交通手段を確保するだけでも大変な時代、
彼の苦労は並々ならぬものだったろう。

我々がラグビーにひたすら打ち込めたのも、
こうした諸事万端をまかなった彼あってのことだった。

よくラグビー魂とかラグビー精神という話題が出るが
私に言わせれば、
それはチームプレイにつきるのではないかと思う。
方向が決まったら一丸となって行動する、
トライに向けて一五人の力が結集する瞬間だ。
そこには、
ただ一片のスタンドプレイも介入するすきはない。

ラグビーというゲームは生身の肉体で激突し合う
最大の集団格闘技である。
一九世紀前半の英国の名門パブリックスクール
「ラグビー高」での出来事。
フットボールの試合中ゲームに熱中した
エリスという少年が突然ボールを抱えて走り出した。

もちろん、これは反則である。

しかし、このハプニングに
場内は興奮のるつぼと化した。

ゲームは抜きにして、
選手も観衆も一体になって、
この瞬間のプレイに熱狂したのである。
この出来事がきっかけとなって
ラグビーというゲームが生まれたわけだ。

私は、今はもうボールを持つことはないが、
年に何回かは秩父宮ラグビー場や
国立競技場へすっ飛んで行く。

神奈川テレビがよく中継すると聞くと、
さっそくその受信アンテナを揃える、
ビデオの録画にしても、
最優先でラグビーの中継を入れる――
という熱狂ぶりだ。

先般ニュージーランドのチームが来日し、
オール日本を始めとする各ラグビーチームが
それこそ完膚なきまでに叩きのめされた。

ラグビー狂の私としては
切歯扼腕しきりというところだったが、
これらの試合を見ていて思ったことは
日本選手が実力を十分出し切ることが出来たら
もっとやれるはずだということ。

オリンピックなどでもそうだが、
日本人は本番に弱い。

これは外国人とのパーティーや
仕事の面でも同じかもしれない。
どうも上手くやろうとか
恥をかきたくない
という心理が働きすぎるからのようだ。

日本人は得てして自分に
必要以上のプレッシャーをかけすぎる。
それが、本番に弱いという結果になっている
のではないだろうか。

また、最近はトライやキックで得点をあげた人だけを
個人的に称える傾向が強いが、
得点は一五人全員の総力の結果であるはず、
やはり、そのラグビーの原点を
なおざりにしてはいけない。

先日、我々一一人のメンバーが集まったが
心の中ではいつも一五人出席している。

不滅の「大丈夫会」の面々は次の通りである。
(前出のメンバーは省く)
北村  収(共栄商社社長)
川田 洋一(三菱金属常務)
藤居  寛(帝国ホテル副社長)
谷津米太郎(荏原ボイラ取締役営業部長)
木村  幹(三国コカ・コーラボトリング取締役
      食品総括部長)
鈴木  昭(栗田工業経営企画室関連事業部)
齊藤 昭男(自営業)
齊藤 賢一(新進食料工業副社長)
長谷川暢洋(三菱原子力工業企画管理部長・参与)
田村  稔(日本ケーブル取締役監理部長)
p11【経営コンサルタント (474)】昭和63年
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https://dl.ndl.go.jp/pid/2205749/1/11
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