[檜山村誌]平成5年(1993)
第二節 城跡
(1) 橋爪城
船井郡誌によると承久の乱(一二二一年)後、
丹波の守護は北条時房-時盛-時益が、
又、南北朝期は、
仁木頼章-頼夏-義伊などで、
室町時代には山名時氏-氏清、
次いで明徳三年(一三九二年)以降は
細川氏が八代に亘って当地を支配した。
こうした中で地方豪族層の出現が多数あり、
山内氏は当地に於て早くから勢力を有していた。
橋爪城は山内一豊の祖父
久豊の居城であったと称されている。
而し山内伊豆守憲邦、
山内越後守憲方などの居城は字三ノ宮であり、
三ノ宮城址として残っている。
一説によると橋爪城は
山内出羽守長宗の居城であるとも称されている。
城址は丹波誌によると、
橋爪常照寺の卵塔場東側の坂道を上った所にあって、
本丸は二四m~一四mの規模で
高さ一m、長さ一八m、幅二mほどの
土塁が北側を限っている。
本丸の上には更に一四m~六mの高台があり、
この高台の北側にも高さ二m巾二mほどの土塁がある。
この高台が最高所の居館跡とすると、
天守台の祖形とも考えられる。
本丸には井戸跡らしい凹地があり、
本丸の南側の一段下った郭にも
池か泉の跡と思われる六ヶ所の凹地がある。
また南郭には三方に土塁がめぐらされていた痕跡があり、
また南郭の東南には城戸口があって、
下方の数郭にも同方向に入口の門が認められる。
城主は山内但馬守盛豊等四代に亘り、
廃城後は桧山に蟄居すとも記されている。
一説によると城跡が橋爪山内家の上の高台にもあり、
近藤家の持山との間に堀の跡があり、
こゝにも何等かの形で居城を構えていたとも考えられる。
(2) 大朴の城山
旧村時代避病院のあった地で、
この土地を大朴方面からは道場ヶ谷と呼び、
和田方面からは飼馬谷と称していて、
大朴の城山と言われているが、
地方の豪族等の見張番の地と推意される。
(3) 井尻城(丹波誌による)
井尻区内中央部消防器具置場のあたりより
西に向って井尻川を渡った所の
城山と呼ばれているのが井尻城跡である。
谷垣氏は「往古谷口と名乗り坂井の城主であったが、
井尻の城主谷垣兵部と
市場の束の山に戦い討死す。
今其所を武士谷と云う」
と丹波誌では書かれている。
本丸を中央にして東、西側にそれぞれ郭が接しており、
両端凡そ五~七mの急斜面に掘られた空堀となっている。
また南側の空堀に連なる二三m×一七mの規模の西ノ丸には、
幅約四m長さ約十一m、高さ約一mの土塁があり、
その中央は通路のようにくぼんでおり、
同形の土塁は本丸の東の郭の北端にも認められる。
さらに、本丸と西の郭との間には
中央櫓の跡かとみられる高まりがある。
(4) 八田城
国道一七三号線高畑の北方にそびえる山があり、
そこに八田城があったと伝えられている。
丹波誌によると
「八田ノ井尻 村上氏先祖ハ
当 奥八田村ノ古城主ノ子孫ニテ
往古 信濃ノ国ヨリ来往ス」とあり。
また
「吉田氏本苗 上原氏
先祖ハ則チ八田村ノ古城主上原氏ノ分流也。
下八田村 山王権現ノ棟札ニ曰ク、
文安元年(1444)上原久左衛門ト記ス」
ともあり
八田村城主が上原氏であったことが考えられる。
「遠山文書」の「中津川秀家申忠状」によると、
観応三年(正平七・一三五二)七月十四日の記述に、
八田の地名が二ヶ所記されている。
本丸は一二m×一九mの規模で、
北西の尾根には階段上に下りながら五つの郭があり、
南の尾根にも同様四つの郭があって、
輪郭型式がとられている。
附近には巨岩が多いが、
それらが巧みに防衛線に取り入れてある。
桧山村誌
平成五年四月発行
発行者 桧山村誌編集委員会
桧山財産区
印刷所 瑞穂印刷所
(非売品)
表題題字 山内勝氏書(字橋爪)
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