父  ルドルフ・レーマン
   1842年(天保13年)10月15日生
   1914年(大正3年)2月4日歿 71歳
母  ベン(木田)
   1856年(安政3年)9月17日生
   1932年(昭和7年)6月24日歿 76歳
長男 アドルフ・レーマン:禮滿 安都呂夫
   1890年(明治23年)1月28日生
   1911年(明治44年)2月13日歿 21歳
   明治四十四年(一九一一)
   チフスにかかり二十一才で亡くなった。

【日本近代化の先駆者たち】1975
著者    手塚竜麿 著
出版者   吾妻書房
出版年月日 1975
 日本近代化の脇役ルドルフ・レーマン
東京に定住して以来長年にわたり、
たえずわが国の文化に寄与した
欧米人の業績の調査と遺跡の発見につとめ
その紹介をつづけてきたけれど
もはや新しい発表材料もつきてしまった思いでいた。

そういうとき、この六月
思いがけないきっかけから、
Rudolf Lehmann(1842-1914)の墓所を
いつも散歩する雑司が谷霊園の管理事務所に
勤務する知人の手びきで
その所在を知ることができた。
外人墓地外にあったが
この意外な偶然におどろいている。
大変な手ぬかりだった。
あらためてRudolf Lehmannをとりあげ、
できるだけくわしく
その人となりについて書いてみたい。

親日ドイツ人Kurt Meissnerから
数年前にいただいた
“Deutsche in Japan 1639-1960”
(1961年東京で刊行)によると、
Lehmannはドイツ北部のOldenburgに生れ、
KarlsruheとオランダのLeydenで工学を修め、
一八六九年(明治2年)大阪へきた。
来日の動機は、他の資料によると、
かれの兄が大阪川口居留地に
レーマン・ハルトマン商会を
創立することになったので、
技術的協力をもとめられて同意した
ものと考えられる。
p68【日本近代化の先駆者たち】1975
p68【日本近代化の先駆者たち】1975
https://dl.ndl.go.jp/pid/12228255/1/68
しかし、その期間はみじかく、
一八七〇年(明治3年)には
京都府のお雇外人となった。
ただみじかいこの大阪時代に、
わが国で最初の洋式船舶をつくりあげたことは
書きもらすことができない。
 ―略―
つぎにかれは京都府のお雇外人となった。
東京で直接中央政府のお雇外人となったのではないから
京都時代の業績はあまり一般に知られていないけれども、
それは単に京都府だけに役立ったのではなく、
京都府で示された数々の業績を通して
日本全体の産業および文化の近代化に
寄与したものであることは
いうまでもない。
 ―略―
https://dl.ndl.go.jp/pid/12228255/1/69
 ―略―
京都府へ迎えられたRudolfの最初の仕事は
ドイツ語の教師であった。
明治初年に刊行された木版刷の
「御雇外国人名簿」をみると、
かれの名は京都府の欄にみられる。
一八七〇年(明治3年)一月から
一八七三年(明治6年)一二月までが
契約期間で月手当は二五〇元、
担当はドイツ語学であった。
当時二十八歳の彼は大阪の官舎にすみ
日々京都河原町二条の欧学舎へ通勤した。

欧学舎は府が経営した
ドイツ学校、英学校、フランス学校の総称で
経費は京都の窮乏を救うため
日本政府が支出した。
 ―略―
https://dl.ndl.go.jp/pid/12228255/1/70
 ―略―
こうして数々の業績を残して
一八八二年(明治15年)上京した。
京都にRudolfを迎えて創立された
欧学舎ドイツ学校は
幾変遷ののち廃校のうき目をみたが
かれが東上した翌々年(一八八四・明治17年)
弟子たちによって
私学ドイツ学校として再開され、
こんにちの京都薬科大学に発展した。

またPapier Fabrikはのち
王子製紙会社の経営にうつされたが、
いまは日本加工紙京都工場となっている。

上京後のかれは
東京外国語学校(東京外国語大学)の前身や
大学予備門(旧第一高等学校の前身)のほか
独乙学協会学校でドイツ語教師をつづけ、
多くの学生を教えたが、
身につけた技術を生かすため転身して
築地にあったM.Raspe商会に入り、
長い間、機械部の責任者として日独貿易に従事し、
またドイツ・アジア協会の会長をつとめた。
 ―略―
大阪生れの日本婦人ベンを妻として
四男二女をあげたが長男を残し

  ※五男一女
  由緒ある日本婦人,
  木田ベンを娶って妻とし,
  五男一女をもうけた.
  長女 たに,
  長男 Karl,
  次男 Adolph, 
  三男 Rudolf, 
  四男 Walter, 
  五男 Fritzで
  次男 Adolphの他は
  いずれも独逸で教育

他の五人はドイツへやって教育を受けさせた。
 ―略―
一九一一年(明治44年)十二月、
六十九歳のときドイツ語学者で当時
外国語学校教授であった水野繁太郎、
工学博士伊東忠太(建築学者)
その他の名士が発起人となって
レーマン会がつくられ、
築地の精養軒で盛大な発会式が催うされた。
その喜びは大変なものであったがその後、
ただひとり東京にのこして
その成人を楽しみにしていた
長男(※次男)Adolfが二十一歳で
腸チフスに肺炎を併発して亡くなった。
大変なショックでRudolfはこの時
https://dl.ndl.go.jp/pid/12228255/1/71
はじめて人前で涙をみせたといわれる。

そのころLehmann一家は
小石川区同心町三十に住んでいた。
いま東京都社会福祉館
(もと小石川区役所)があるあたりである。
Adolfのため住居からあまり遠くない
雑司が谷霊園に墓地をえらんだ。

それから三年後の
一九一四年(大正3年)二月に
Rudolfは急性肋膜のためなくなった。
享年七十二歳だった。
その生涯の大部分を日本ですごし、
めざましくはないけれど、
ドイツ人らしい質実と素朴さで、
日本のドイツ語教育と
産業・文化の近代化のために尽した
Lehmannの死に対し当時の新聞は
ほとんど報道しなかったようだ。

一九三二年(昭和7年)六月、
七十六歳で急性肺炎のためなくなった
妻のベンも葬られているが
いまは無縁になってたずねる人もまれである。

墓碑の碑面は写真ではわからないが、
“Grabstatte der Familie Lehmann”
と上部にかかれ、
その下に埋葬順にAdolf,Rudolf,Benの三人の名と
生没地と年月日がきざまれ、
一番下にはヨハネ福音書八章三一~三二が
ドイツ文で記されている。
 ―略―
墓所は一種四号五ノ側十五番にある。
この墓地保存のためLehmannの事業と関係深かった
王子製紙や日本ビールなどの会社が
手をうってくれるとありがたいが、
それ以上に早くからドイツに去った子女の子孫が
この一文でさがし出すことができたら
どんなにうれしいだろう。
〔一九六四年(昭和39年)十月 TMN〕
https://dl.ndl.go.jp/pid/12228255/1/72
日本近代化の先駆者たち
1975年11月25日 第1刷発行
著 者 手塚竜麿
発行者 杉浦勝郎
印刷所 K.K.啓文堂
発行所 吾妻書房
    東京都千代田区九段南4-2-12
    代表電話(262)4056・振替東京10342
https://dl.ndl.go.jp/pid/12228255/1/268
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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2016/02/11 19:19
ルドルフ レーマン(1842-1914)造船技術者
Rudolf Lehmann 1
Rudolf Lehmann 1

ルドルフ レーマン 略歴
Rudolf Lehmann 2
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Rudolf Lehmann  [ るどるふ れーまん ]
生誕年月日 1842年10月15日
出生地   オルデンブルク
没年月日  大正3年(1914年)2月4日
没地    東京
特記事項  職業:技術者、教師
      親族:カール(兄)
経歴    ドイツの技術者であり、教師。
兄のカールが設立した
レーマン・ハルトマン商会の相談役として
明治2年に来日する。
京都の欧学舎教師となり、
同僚たちと日本初の独和辞典の編集に尽力。
明治10年には「和独対訳字林」を校定。
のち東京外国語学校、東京大学予備門で教鞭を揮い、
退職後は日独貿易に従事した。
大正3年2月4日東京で死去。71歳。
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