【映画テレビ技術 = The motion picture & TV engineering (464)】
出版者   日本映画テレビ技術協会
出版年月日 1991-04(平成3年4月)
長春映画制作所訪問・報告(上)
――残影――満州映画協会――
  八木信忠(やぎ のぶただ)
 日本大学芸術学部教授、本誌編集委員
◇はじめに◇
昨年(平成2年)の11月19日から23日まで、
北京で開催された
「日中ハイビジョン映画技術協力」が
無事終了した後の11月24日より27日の間、
中国電影電視技術学会副理事長の
馬守清先生はじめ中国側の皆様のご厚意により、
長春映画制作所を見学する機会を得た。

長春映画制作所は
昭和20年(1945)以前は満州映画協会、
いわゆる「満映」だった所である。
この「満映」時代の思い出を、
私は何年か前から、
馬守清先生、
西本正さん(注)、
木村荘十二さん(監督)、
李光恵さん等から伺っているが、
そのお話を重ね合せながら、
現在の長春映画制作所を紹介したい。
https://dl.ndl.go.jp/pid/4433245/1/15
◇HDフィルムの上映会場にて……◇
翌々日の11月26日、
制作所内の大講堂で、
日本から持参したHDフィルム作品
『玄妙』と『うぐいすの里』の検討試写会を開いた。

中国側参加者は250名ほど、
会場の講堂は旧満映時代からのものである。
収容人数はほぼ300名、
それほど大きくはない舞台が付いている。
スクリーン横幅は10mほどあり、
映写条件は北京電影学院の
シンポジウム会場に比較すれば、
かなり良好である。

我々日本側の参加者、
そして馬先生も同席する。
講堂にいっしょに入った馬先生は、
懐かしげにあたりを見わたした。
そして
「変ってません、昔と、ほとんど変ってません」
こう私に語った。

今から49年前、1942年(昭和17年)、
馬守清青年はこの講堂の舞台の上に立っていた。
第一期満州映画協会養成所主席卒業生として、
甘粕満州映画協会理事長は、
修了証書、優等証書、
そして置時計を馬青年に授与した。

馬守清青年がこの舞台に2度目の主役として立ったのは、
日本が敗戦をむかえた1945年(昭和20年)の秋であった。

その時の様子を、
同じ満映の撮影助手で同じ作品についていた
西本正さんは、
次のように話してくれた。

「旧満映の日本人職員は講堂に集まるよう指示されました。
 中国側にこの満映の社屋、機材すべてが譲り渡され、
 新しい中国の撮影所として発足する。
 この件について、
 発表があるらしいという噂は流れていました。
 
 だれが新しい撮影所の所長になるのか、
 そして我々日本人はどうなるのか、
 不安でざわめいていました。

 しばらく待たされた後、
 中国側の人達が入場して来ました。
 その先頭の人の顔を見て、
 私はアッと驚きました。
 私の組のセカンドだった馬君です。
 馬君はさっそうと舞台に上りました。
 後に数人の人が続きます。

 馬さんは毅然とした態度で日本人に云いました。

 今日から私たちがこの撮影所の責任者となります。
 そして映画を作ってゆきます。
 日本人の方も私どもと協力して映画を作りませんか、
 その気持のある方は歓迎致します。……

 あのセカンドの馬君が……、
 その時の顔はとても凛(りり)しく
 私の目に写りました。」

この話に、馬先生は
「それは西本さんの誤解だと思います。
 所長は張英華さん、
 私は制作部長です。
 私が日本語が出来るので、
 私がすべて通訳をしたので、
 そのように感ぜられたのではないのでしょうか。
 当時、満映では、監督、技術者は、
 ほとんど日本人でした。
 中国人で正式のカメラマンは一人もいなかったんです。
 カメラマンの肩書きはなかったけれど、
 仕事をやり始めた人が王啓民さん一人でした。
 そのため、この新しい組織にはどうしても
 満映にいた日本人の方の協力がなければ
 仕事をやっていけないのです。
 私は日本人と関係も深いし、
 話も出来ますから、
 おもに私が中心となって
 日本人と交渉をすることになりました。」

そして、その時から45年を過ぎた今、
馬先生は日中共同制作のHD実験フィルムを
プロデュースし、
日中のシンポジウムを成功させ、
日中の仲間と同じ講堂の席で
ハイビジョンで制作されたフィルムの
試写に立ち会っている。

どのような想いが、
馬先生の脳裏をよぎっているのか、
隣の席の馬先生の横顔を見ると、
スクリーンのさらなる向う側を見ているような
目差しだった。

長春電影制片厰略圖
 p16【映画テレビ技術(464)】1991-04
p16【映画テレビ技術(464)】1991-04
https://dl.ndl.go.jp/pid/4433245/1/16
(筆者注)
《西本 正》
1921年(大正10年)2月5日生まれ。
満州映画協会養成所を経て、
1944年(昭和19年)日本映画学校卒業後、
満州映画協会映画部撮影技師補、
終戦後は日映、新東宝勤務、
1956年(昭和31年)に
第1回撮影担当の「鉄血の魂」を完成、
以後同社作品約20本を担当、
のち色彩技術指導のため、
香港ショウ・ブラザーズへ派遣され、
1959年(昭和34年)に同社と契約、
1972年(昭和47年)契約終了。
この間劇映画60本を担当、
併せて技術指導につとめる。
1976年(昭和51年)香港電影特技公司を設立、
現在にいたる。
第10回増谷賞受賞。
https://dl.ndl.go.jp/pid/4433245/1/17
©映画テレビ技術 5.1991 No.464
平成3年4月1日発行(毎月1回1日発行)
昭和26年11月24日 第3種郵便物認可
発行人 伊藤二良
編集人 中山秀一
発行所 社団法人 日本映画テレビ技術協会
    東京都千代田区大手町1-7-2
    サンケイビル別館
    電話(03)3231-7171大代表
https://dl.ndl.go.jp/pid/4433245/1/64
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