【映画テレビ技術 = The motion picture & TV engineering (465)】
出版者 日本映画テレビ技術協会
出版年月日 1991-05(平成3年5月)
長春映画制作所訪問・報告(下)
――残影――満州映画協会――
八木信忠(やぎ のぶただ)
日本大学芸術学部教授、本誌編集委員
◇長春映画制作所・主の変遷◇
この長春撮影所の主は何度も変った。
それは日本と中国、
それにソビエトの波乱に満ちた
国際関係に翻弄された結果であるといってもよい。
簡略にこの撮影所の歴史をたどってみよう。
1939年(昭和14年)11月、
この撮影所は落成した。
満州映画協会(以下、満映)の本社ならびに撮影所として。
満映の創立は1937年(昭和12年)であるが、
1939年(昭和14年)までは
長春市の北西の寛城子という所の
使わなくなった機関庫をスタジオとして使用していた。
1945年(昭和20年)8月9日ソ連軍が参戦、
ソ満国境を越えて侵攻。
1945年(昭和20年)8月15日をもって終戦、
甘粕満州映画協会理事長は自殺、
満州映画協会は解体した。
ソビエト軍が長春に進駐。
1945年(昭和20年)11月1日、
「東北電影公司」として新しく発足、
所長には
張英華(1938年(昭和13年)日大映画科卒、
西河克己監督と同級)
制作部長は馬守清というメンバー。
https://dl.ndl.go.jp/pid/4433246/1/31
写真4 李光恵さん(右)と馬守清先生
p32【映画テレビ技術(465)】1991-05
https://dl.ndl.go.jp/pid/4433246/1/32
(筆者注)
《甘粕正彦》 ※下記参照
1891年(明治24年)1月16日生れ、
※明治24年(1891)1月26日
陸軍士官学校24期生、憲兵となる。
1923年(大正12年)9月1日、関東大震災、
同年(大正12年)9月16日
大杉 栄、伊藤野枝、橘 宗一を殺害、
軍法会議にて懲役10年の刑を受ける。
服役後満州国建国にかかわる。
1939年(昭和14年)11月1日
満州映画協会理事長に就任、
1945年(昭和20年)8月20日
満映理事長室にて青酸カリで自殺。
《木村荘十二》
1903年(明治36年)生れ、
1924年(大正13年)大阪東邦映画製作所入社、
阪妻ユニバーサル連合、河合映画、帝キネマを経て、
1930年(昭和5年)「質屋と花嫁と紳士」で第1回監督、
以後新興キネマ、PCLの監督として活躍。
1941年(昭和16年)中国に渡り
満映参事、満映養成所で教鞭をとる。
戦後帰国後、独立プロ作品、記録映画、
アニメーション等の監督として活躍、
1988年(昭和63年)没。
https://dl.ndl.go.jp/pid/4433246/1/33
©映画テレビ技術 5.1991 No.465
平成3年5月1日発行(毎月1回1日発行)
昭和26年11月24日 第3種郵便物認可
発行人 伊藤二良
編集人 中山秀一
発行所 社団法人 日本映画テレビ技術協会
東京都千代田区大手町1-7-2
サンケイビル別館
電話(03)3231-7171大代表
https://dl.ndl.go.jp/pid/4433246/1/74
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2017年08月02日05:57
[滿洲映畫協會]理事長 甘粕正彦
【満洲職員録. 康徳8年度(昭和16年)】
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇