【部落問題と文芸 (5)】1992-09
出版者   部落問題文芸作品研究会
出版年月日 1992-09
部落問題のうちそと
戦火をのりこえて  北川鉄夫
 p27【部落問題と文芸 (5)】1992-09
p27【部落問題と文芸 (5)】1992-09
◇満映に入社
戦争のまっただ中である。
私はどうしていたかといえば、
前半は新たに実施された
戦時統制法の「映画法」で、
映画人の機能を守る組織の
全日本映画人連盟の関西事務局長をやっていた。
後半はこの連盟が戦時解散したので、
海をわたって満州国の半官半民組織である
「満州映画協会」に入社、
赤い夕陽と高粱畑をみてくらした。

ここで敗戦、
満州国が解体する混乱の中を、
私は一九四六(昭和二一)年八月十七日、
日本国へ帰り、
一まず妻の実家の京都へおちついた。
この私の戦争期間には、
もちろん書くことが多い。
書きようでは、
それだけで一冊の本になるだろう。
しかし、
本稿がそもそも私と部落問題というのが
中心のテーマなので、
この戦争期間では部落問題の関係は
ほとんど皆無にちかい内容である。
それで私は思い切って、
この部分を切り捨て、
若干の問題にふれるだけに止めた。

一つは二回にわたる日本人映画人の満映参加である。
第一回は、一九三八(昭和一三)年のときは、
当時の日本映画界で名作をつぎつぎと世に送っていた
日活の製作のリーダーである
根岸寛一、マキノ満男らが俳優を除く
各種の技術者を引きつれて満映へ入社した。
ところが、これらの職員型技術者は、
基本運営を官僚式の合理主義でかためている
満映の体質とはウマがあわない。
思うほどの成果を見ない満映では、
人材の入れ替えを考えた。
そして甘粕正彦理事長が自ら日本へ渡り、
第二次の人材補充を申し入れた。
甘粕正彦というのは憲兵大尉で関東大震災のとき、
無政府主義者大杉栄・伊藤野枝と
甥の少年の三人を扼殺した男である。
彼は、刑を終えると満州へおくられ、
その後はいわゆる満州国建設の影の力として
動かし難い存在となっていたが、
表面的には満州映画協会という文化組織に身を寄せ、
にらみを利かしていた。
その甘粕がのりだして、
人集めをしたわけである。
当時日本映画界は映画法制定などで
次第に戦時色をふかめており、
一方フィルム製造に必要なニトログリセリンは
また火薬製造に必須である。
火力の充実を計った軍は、
当然フィルムの生産に影響し、
映画の製作の減退は当然である。
それは製作関係の映画人の合理化を意味する。
そうした状況におかれた映画人の中に
合理化による失職の黒い影が
生じてきたのも当然であろう。
そうした技術者の動揺は、
それでは外地でやるかという思いとなり、
満州=甘粕の意図は一応の成果を生んだ。
八木保太郎、杉山公平らの
一流のベテラン技術者を筆頭に、
かなりの映画技術者が
第二次満映入社となったのである。
私は渡満希望者を
映画人連盟の事務局長だというので
まとめる立場から世話をしていたが、
君も一緒に行かぬかということになり、
映画人連盟も解散するし、
外国生活もよかろうと
満映に入社することになった。

私は映画技術者ではないので、
満映は私をどんなポジションに
つけるかと思っていたら、
映画人養成所の主事ということになった。
なるほど私は映画理論や映画史のことは
一通り専門的に知っているし、
これなら養成所で生徒に講義はできる。
主事ということで私の上役には所長がいたが、
これは製作局の中心なので、
所長は形式的で、
私がほとんど管理と運営を任された形だった。
ここでは中国人の技術者を養成するのが目標で、
日本人や朝鮮人の青年も少数だがいた。
満映は敗戦とともに消え去るのだが、
その機材と施設、
そして若干の中国人技術者
―まだ幼稚ではあったが―は残った。

第一回の卒業生の中には、
のちに毛沢東専門のカメラマンとなった
馬守清もその一人であった。
また、日中外交が正常化して
文化交流が行なわれた行事の一つに
京劇の名優が来日したとき、
私も大阪での歓迎会に出席したら、
その一行の一人から呼びとめられた。
見ると、これは眼の碧い中国人で
李某という養成所出
https://dl.ndl.go.jp/pid/1865600/1/27
身のカメラマン。
彼は中国人とロシア人との混血児で
眼が碧いので、
私はよく覚えていた。
彼はこの訪日芸能人一行に随行している
カメラマンであった。
彼との話で、
養成所出身の技術者たちが
りっぱに第一線で活躍しているとのことで、
私には大へんうれしかった。

養成所は毎年秋になると、
生徒募集である。
入所資格は中学校卒ということなので、
所としては、
毎秋所長か主事がめぼしい中学へ
勧誘に全国を旅して、
入所者をかためてゆく。

私もこの勧誘旅行を二度ばかりやったが、
土地不案内に言葉も通じにくい
という障害もあったが、
結構この旅はたのしかった。
独りで行くのだから、
万事が自分のやり放題である。
官費で負担もかからない。
この旅のおかげで
私はあちこちの都市を歩いて廻った。
今も記憶にのこるのは、
熱河省の承徳。
この西太后の離宮や
いくつかのラマ教寺院が美しく
山河を彩っている美しさはすばらしい。

私はスベン・ヘディンの『熱河』一冊を手に、
街中が一つの結構をつくした
大庭園のような承徳の街を歩いた。
中学の校長から、
熱河は中共系の遊撃隊の活躍地帯で、
街を歩くのも十分注意してほしいといわれたが、
街の美しさにひかれていつか危険のほども忘れ、
ラマ僧のアパートみたいな大建物をただ独り、
エッチラオッチラ歩いて上った。
そのとき私の感動したのは、
手にしたヘディンの『熱河』の文章であった。
彼の書いた一行、一行は、
まるでその歩いているところを
すぐペンにしているほど、
緻密で正確で、生々としていた。
これは日本型のボカシとはちがう美の感覚である。
こんな旅をしながら、無事満映へもどって、
何人かの養成所入所希望を報告していたのである。

そして一九四五年(昭和20年)八月に
ソ連軍の満州国進出となったのである。
実質的な「満州国」は、
機能を停止したといってよいだろう。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1865600/1/28
「部落問題と文芸」第五号
発 行 一九九二年九月一三日
発行者 部落問題文芸作品研究会
    〒六〇六
    京都市左京区高野西開キ町三四の一一
    部落問題研究所気付
    郵便振替 京都四の一七三二九
    電話〇七五(七二一)六一〇八
印 刷 東海電子印刷株式会社
    頒価 五〇〇円
https://dl.ndl.go.jp/pid/1865600/1/39
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