【部落問題と文芸 (5)】1992-09
出版者 部落問題文芸作品研究会
出版年月日 1992-09
部落問題のうちそと
戦火をのりこえて 北川鉄夫
p27【部落問題と文芸 (5)】1992-09
◇甘粕正彦の自殺真説
日本国の敗戦、
満州国の消失という一つの歴史的な変化は
まだまだ明らかにされてはいない。
シベリアへ日本軍兵士が大量に抑留された
問題一つをとっても、
最近のロシアの政変とからんで
やっと口が開けてきたといったように、
多くの人々のことが土足でふみにじられるように
消え去って行くのだろう。
悪名か善名かは知らぬが、
とにかく一さわがせした人や事件で、
どうやら歴史の片隅にのこされそうなのは、
幸いとしなければならぬ。
私が中国東北の胡芦島港から輸送船で、
多くの日本人と一緒に日本国に帰ってきたのは、
一九四六年(昭和21年)八月十七日であった。
もっと厳密にいうと二泊三日間の船旅で、
日本国の博多港へ上陸したのが八月十日で、
ここではじめてはっきりと日本の土を踏み、
米兵と日本の女性がうでを組んで
ヘラヘラと白昼歩いているのを眼にしたのである。
驚いたのは、私たち旧満映の引き揚げが
「映画人帰国第一号」ということで、
ジャーナリストがどっと押しかけてきたことである。
裏方と家族という人たちばかりなので、
やむなく私が代表して応待した。
記者たちには当外れでお気の毒であったが、
そこで驚いたのは、
甘粕正彦理事長がピストル自殺したという。
私はそれはまちがいで、
甘粕は理事長室で
青酸カリであったことを明らかにした。
これは、甘粕正彦という正体不明な存在が、
ピストル自殺をしたという、
いかにも甘粕らしい死をくつがえし、
青酸カリという小さな形に矮小したことで
記者たちはガッカリしたらしいが、
私自身も連絡があって理事長室へ行き、
まちがいなく青酸カリ自殺の姿を目撃したから、
曲げようもない事実であった。
ただ、甘粕はソ連進入のあと、
日本人社員を全員集めて、
その前で自分は自殺すると公言したことは
私もその中にいたからまちがいはない。
ただ敗戦前後の混乱した中で、
甘粕自殺という報道がとにかくにも
どこかの誰かによって
なされていたことも事実のようだ。
ただ私は誤ったままの
甘粕自殺の報道が実際になされたことを
確かめてないので、
案外私の記者会見が第一号かも知れぬ。
この「甘粕自殺」はこちらがもっている情報だが、
「原爆投下」はどうだろうかと、ふと思った。
私は正直にいって、何も知らなかった。
おそらく私と行を伴にした引き揚げ日本人も
同様に知らなかったろうと思う。
私は(昭和21年)八月十六日の白昼に
山陽線を京都へ向けて走る
引き揚げ者の一人であった。
つぐつぎに赤ちゃけた感じの色彩につつまれた
被災地を通り過ぎたし、
ヒロシマ駅では停車もしている。
原爆投下一年後のヒロシマは、
私にはひどく破壊され、
赤銅色一色のような記憶が
ボンヤリのこっているだけである。
その後私が戦後の広島を最初に訪れたのは、
映画「原爆の子」の上映のことで、
一九五二年(昭和27年)の真夏である。
そして私が歩いて自分の眼でたしかめた
戦後のヒロシマは、
被爆の面影は表面的にはうすれていた。
ただ驚いたのは、その夜、
旅館で夕刊をみると、
私が昼前後に通った広島駅近くの猿猴橋で
ヤクザのいざこざがあり、
ピストルが射たれていたことである。
もう少し私の通ったのがおそければ、
どんな目にあっているか判らないわけで、
ゾッとした。
翌日、劇場の支配人との話の中で、
そのことを話すと、
支配人は、
とにかくヤクザの進出はすごいですよ、
一つちがえば一発パーンですからね、
注意して下さいとのことであった。p29/40
https://dl.ndl.go.jp/pid/1865600/1/28
「部落問題と文芸」第五号
発 行 一九九二年九月一三日
発行者 部落問題文芸作品研究会
〒六〇六
京都市左京区高野西開キ町三四の一一
部落問題研究所気付
郵便振替 京都四の一七三二九
電話〇七五(七二一)六一〇八
印 刷 東海電子印刷株式会社
頒価 五〇〇円
https://dl.ndl.go.jp/pid/1865600/1/39
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