【部落問題と文芸 (5)】1992-09
出版者   部落問題文芸作品研究会
出版年月日 1992-09
部落問題のうちそと
戦火をのりこえて  北川鉄夫
 p27【部落問題と文芸 (5)】1992-09
p27【部落問題と文芸 (5)】1992-09
◇朝田善之助との出会い
京都は被爆の経験がほとんどない。
私が家族ともども一人も欠けずに、
戦災列車で京都駅に降りた印象も、
戦前私が生活の中で見なれてきた、
余り風体のあがらぬ京都駅であった。
そして私には今でもその当時の京都の印象が
そっくりそのまま続いている。
実際には大へん変っているのだろうが、
変っていないように見える。

私は帰って早々は、
とにかく私の旧知たちを訪ねて帰国のあいさつをし、
傍らしごとの口を頼むことで明けくれた。
京都の古い町々を歩いたが、
戦前のままの風情がのこっているところが多かった。
戦後の京都が革新府・市政をつくりだし、
一方で国会から市町村の自治体にいたるまで、
多くの革新議員をおくりだしているのも、
この京の変らぬ古さが
一つの力になっているのではなかろうか。

こんな理屈はこれくらいにするが、
こういう京都の古さが
一定の見識となって京都市民中に
居すわっていることはたしかであろう。

私が満州から京都へかえってきて、
まず腰をおろしたのは、
左京区の象徴のような顔をした
京都大学の北に百万遍という大きな寺がある。
この百万遍を通りぬけたあたりに
安井病院という共産党員が院長をしている
大きな病院がある。

ここの初代院長の安井信雄は、
マルクス経済学の開拓者の一人である
河上肇などの主治医であった人だが、
左京区という山深い地域をかかえた一帯を
長年の医療活動で開拓した力で、
戦後の最初の市議選に立候補し
みごと第一位で当選して以来、
ずっと落選したことがない。

その安井病院をとりまいた形のところに
私の妻の実家が住んでいた。
当初、この借家は私が満州へ行くまで
住んでいた家である。
私たち一家の渡満したあとで、
この家は妻の実家が借りていた。
そこへ一先ず私たちは腰を降ろした。
妻の実家にすれば迷惑な話だが、
断りもできない。
そんなことで私の帰国後の生活の巣は
この左京の一角となった。

帰国して二、三日だと思う。
私の妻の姉が共産党員であったので、
そのあっせんで中国の体験を話してほしいといわれた。
それで、一夜が、つまり私の話を聞く会になった。

安井病院がまだ今のようなところでなく、
安井医師の自宅が同時に病院になっていた。
或いはまだ病室がなく
診療所だけの医院であったかも知れぬ。
その安井医院の一室に数人集って
私の話を聞く会がもたれた。

そのとき安井医師から
朝田善之助を紹介された。
そのころの朝田善之助はレッキとした
共産党員であった。
いずれにせよ朝田と正式に知りあったのは、
この時が初めてである。

そして、翌年の地方選挙で朝田は
左京区の共産党の正式候補となり、
地方選挙をたたかったのである。
私もビラの街頭張りや応援弁士で応援した。
当時の応援弁士は、
若い運動員の自転車のお尻にしがみついて
つぎの会場へという全くの手弁当型であった。

この選挙、安井は一位当選であったが、
朝田は落選した。
朝田には地域での浮動票がほとんど入らない。
また、本来朝田の基礎票田である
田中の部落が大変な乱戦。
朝田の他に保守系から二人、
さらに社会党、労農党、無所属と出馬している。
労農党はいまは無いが、
もともと容共革新の小政党である。

田中から立候補した人は、
どうみても革新系とはいえない人物。
ところが立候補者がたくさんいて、
もう名乗る政党といえば労農党しかない。
それでやむなく労農党へ申し入れ、
候補者を出さない労農党は
まあよかろうといった調子で、
さすがの大票田の田中もバラバラに分散している。
頼みの田中の部落がそんな状況だから、
市議選の方はしっかりと地盤をもった
安井信雄が予想以上に票を集め
第一位で当選であったのに、
府議の朝田の方は落選であった。

その後朝田とは、
私が六〇年安保のころ、※昭和35年(1960)
しごとの関係で東京へ移住するまでつづいた。

別に組織として直接には関係がないから、
任意なものであったが、
朝田の周囲では
戦前から市役所の民生局関係のメンバーが
ブレーン・トラストのような形で
朝田にくっついていた。

その中では、民生局の主査である
中川忠次が中心で、
朝田の思想形成には
このグループの影響が大きかった。

中川忠次は京大のドイツ文学出身で、
荒木次郎が中川だといえば
ああそうかという人もいよう。

その中川は私もよく知っていたが、
戦後の京都でわき上るように
職場からわき起った文化活動熱を
二人でまとめることになった。

そして、京都勤労者文化同盟という組織をつくり、
その活動費の財源は市の予算から
中川らがひねりだした。

当初から財源がたしかな組織の運営は楽である。
中川が市職から出た形で議長、
私が「全新聞」から出た形で副議長ということで
連盟はうごき出して、
四七年(昭和22年)の秋には
全市の労働組織やサークルで、
さまざまな分野のコンクール、
発表会、展示会などをひらいた。

朝田と私がつきあった中で、
副産物のようにしてつくりだされ、
成果をあげたのは勤文連であろう。
そうしたことが可能な雰囲気が
敗戦直後の日本にいたるところに
かもし出されていたことも、
勤文連成立の大きな原因であろう。

敗戦でも一度顔を洗い直した
日本の勤労者がつくりだした、
きわめてすなおな民主主義の姿である。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1865600/1/29
「部落問題と文芸」第五号
発 行 一九九二年九月一三日
発行者 部落問題文芸作品研究会
    〒六〇六
    京都市左京区高野西開キ町三四の一一
    部落問題研究所気付
    郵便振替 京都四の一七三二九
    電話〇七五(七二一)六一〇八
印 刷 東海電子印刷株式会社
    頒価 五〇〇円
https://dl.ndl.go.jp/pid/1865600/1/39
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