【慰問之栞】昭和16年(1941.3)
出版者   陸軍恤兵部
出版年月日 1941.3
 p2【慰問之栞】昭和16年(1941.3)
p2【慰問之栞】昭和16年(1941.3)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1906754/1/2
   私の日記から 三浦環①
  十二月二十四日
  ※昭和15年(1940)12月24日
紀元二千六百年も終りに近い師走の夕方。
私は東京の住居に近い、
靖國神社のお側にある九段坂病院に、
昨日から入院した。
私が病氣なんてほんとに珍らしい。

實は昨日、
急に腹部に云ふに云はれぬ痛みを感じたので、
三浦謹之助先生に御診察を受けると
之は盲腸炎との事で、
早速此處に入院した。
腹部を氷で冷したら、
痛みは不思議になくなったのでもう安心。
手術はしない事にした。
かうして病院に居ると、
先日御慰問に參つた時、
あの鮮血したゝる體を擔架に乘せられて、
兵舎に歸へつて來られた
お方々の事が思ひ出される。
あの方々のうちには、
手おくれで出血の爲に
死なれた方もありはしないかと、
つくづく思はれて來る。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1906754/1/139
自分がこんなに容々(やすやす)と入院出來て、
病院で何不自由なしにしてゐるのが
濟まないやうな氣がする。
たゞ私はあと一週間ぐらゐは安靜にして
居ねばならぬので、
退院は未だ出來ない。
腹部を手術されては、
大きなお腹(なか)だから
ひよつと勝手が違つて、
もしもお醫者樣が切りそこなふと
いけないと思つて、
手術だけはやめることにした。

夢を見た事のない私が、
かうして病院に居ると
大聲で獨唱をしてゐる所ばかり夢に見る。

今日はもう物が食べたくて
お饅頭の夢を見てしまつた。

何時か上海から南京へと汽車で參つた時に、
匪賊が鐵道を破壊したので、
私共は夜中の十二時まで飲まず食べずだつた。
持ち合せのパンや菓子は、
その朝、
鐵道守備の兵隊さん達に皆差上げたので
もう何もない。
一同の者の中には
『皆の顔がパンに見える』
なんて云つてゐた人もあつた。
あの時は、
私はそれどころか恐ろしかつた。
支那人がやつて來たら、
どうしようと考へてゐた。
けれど、
兵隊さん方に護られて
何の支障もなく旅をつゞけた。
ほんとに私は今更ながら、
兵隊さんにお禮を申し上げたい。

(昭和15年)九月二十日に東京を出發して、
(昭和15年)十一月十九日歸京するまで、
私は自分も兵隊さんになつた
やうなつもりであつた。
とてもとても愉快であつた。
ローソクの火のついてゐる
宿舎に泊らせていたゞいた時は、
兵隊さん達のお目が
惡くなるだらうと思つたりした。

晝間〇〇の野外で私が唱うた時には、
汚い樣子をした支那人達が、
ウヂヤウヂヤと、
大人も子供も幾千人も、
私の獨唱を聞きに來た。
その夜私が支那の芝居を見に行つたら、
支那人が皆でサンプーカン
サンプーカンと言つて、
手をたゝいて
私に木戸のお金を拂はせなかつた。
サンプーカンと云ふのは、
三浦環の事ださうだ。
あの時私はとても嬉しかつた。
たつた一度の獨唱で
こんなに親しむ事が出來るなら、
いつそ私は重慶まで行つて、
毎日音樂會でも出來たらならば、
きつと蒋介石の宋美齡も
自然に靡くのではないかしらと思つた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1906754/1/140
慰問之栞  (非賣品)
(陣中倶樂部 特別號)
昭和十六年三月一日印刷
昭和十六年三月十日發行
發行者 陸軍恤兵部
    東京市麴町區永田町
編輯兼 株式會社 大日本雄辯會講談社
印刷者 東京市小石川區音羽町三丁目十九番地
印刷所 凸版印刷株式會社
    東京市下谷區二長町一番地
https://dl.ndl.go.jp/pid/1906754/1/147
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