【慰問之栞】昭和16年(1941.3)
出版者 陸軍恤兵部
出版年月日 1941.3
p10【慰問之栞】昭和16年(1941.3)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1906754/1/10
私の日記から 三浦環③
十二月二十七日
※昭和15年(1940)12月27日
今日はがつかりした。
お醫者樣が御診察の時に、
私の腹部は盲腸の所にシコリが出來てゐて、
これが膿をもつてゐるから、
まだ暫らくは氷で冷して
安靜にしておかなくてはならぬ。
お正月は病院で寝たまゝに迎へるのだとの事。
でも今日からスープ、片栗、
オモユが許され果物の汁などを
いたゞける事になつた。
私のお腹の上には澤山ガーゼのぬれたのと
氷嚢がのつてゐる。
これが良い心持とは情けない事だ。
皇軍慰問に行つた一行は、
私の他に七人ゐたが、
皆病氣になつて
私一人はピンピンしてゐたので、
皆の病氣になるのを不思議にも思ひ
不甲斐なくも思つてゐたのだ。
つい二十二日の夜も、
私は音樂會に出て唱つてピンピンしてゐたのに。
何といふことであらう。
十二月二十八日
※昭和15年(1940)12月28日
今日は本當ならば私の家に
女芝居の坂東勝次一座が來る筈だつた。
私の母が八十三の年を越しますお祝ひと、
私が皇軍慰問で
無事にかへつて來た事を兼ねての催しである。
先代萩の飯焚の處と、
加賀見山のお初の忠義のところを
全體で五幕にしてやる豫定で、
學園の生徒達も來る筈だつた。
昨年催した時傷病兵の御方々をお呼びしたが、
いづれは此の芝居を戰地にも持つて行つて、
見せてあげたらお喜びであらうなどとも考へてゐた。
けれども私が此のやうな有樣なので
それはやめになつた。
此の病院に入院してゐた可愛いお孃ちゃん二人が、
お手製の美しい千代紙で作つた藥玉を二ツ、
私の所へ持つて來てくれた。
私の部屋は花だらけ。
梅と福壽草、小松などの取り合せた鉢植はとても可愛い。
これは學園の生徒がくれたのだ。
皆が
『やはり皇軍慰問の過勞で病氣になられたのでせう』
と申される。
私はそれを聞くのがつらくてたまらない。
だつて私はまだまだ出來るなら、
方々へ兵隊さんの居られるところに
お見舞に行きたいのですもの。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1906754/1/141
私が皇軍慰問をして一番嬉しかつたのは、
自分の獨唱が濟んで、
最後に兵隊さん達が一同で
愛國行進曲を唱つて下さつたことだつた。
あゝ‼
なつかしい、あの大きな勇ましいお聲、
天をも地をも轟かせるあの聲。
私は今これを書きながら、
あの兵隊さんの忠義のかたまりのやうな
お聲を此の身一杯に感じる。
私の眼は涙にぬれて、
枕の上にはポトポトと
小さな涙の音さへたててゐる。
私はあの時、
此の腕を大きく振つて、
身にはお蝶夫人の衣裳をつけながら、
力の限り無心に指揮をしてゐたのだ。
萬歳々々とお互ひに叫んだ。
有難う有難うと兵隊さんが申された。
環さん環さんと呼んでゐた人もあつた。
自分の持合せの慰問袋の罐詰やハンケチ、
お菓子など取り揃へて、
私の所へお禮に持つて來て下さる方もあつた。
私は又きつと全快して慰問に行き度いのです。
兵隊さんたちが懐かしいのです。
『きつと行きます』
と私は心中云ひつヾけて居る。
(昭和十五年十二月二十八日
東京麴町 九段坂病院
三號室のベッドの上で)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1906754/1/142
慰問之栞 (非賣品)
(陣中倶樂部 特別號)
昭和十六年三月一日印刷
昭和十六年三月十日發行
發行者 陸軍恤兵部
東京市麴町區永田町
編輯兼 株式會社 大日本雄辯會講談社
印刷者 東京市小石川區音羽町三丁目十九番地
印刷所 凸版印刷株式會社
東京市下谷區二長町一番地
https://dl.ndl.go.jp/pid/1906754/1/147
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