【この自由党! 前篇 (民衆なき政治)】昭和27年
著者 板垣進助 著
出版者 理論社
出版年月日 1952
p3【この自由党! 前篇 (民衆なき政治)】昭和27年
https://dl.ndl.go.jp/pid/2982142/1/3
Ⅱ 犬(ワン)マン私党化行進譜
国民を忘れた私利党略
1 自由はヤミのなかより
さてみなさん!
いかに金色さんぜんと輝きましょうとも、
臭氣ふんぷんたる汚物から生れた金蠅が、
美しいなどといえましょうか?
その誕生の日
敗戦で天皇の地位がぐらぐらゆれ、
昨日までの現人神(アラヒトガミ)のありがたさが
迷夢のさめるように日一日とうすらぎ、
その戦争「責任」がかれこれ論議のまととなって、
もうインテリ人種のなかでは
陛下ずけでよぶのなんかてんでおかしく、
なにか旧時代の骨董のたぐいになりかかっていた
この年(昭和20年)の十一月九日、
日比谷の一角に元気な齊唱でときならぬ
「天皇陛下万才!」の三唱がおこった。
『なんだ、まだ戦争がおわっていないみたいだナ』と、
このあたりの新聞街がけげんな顔をしたこの声こそ、
わが自由党発足の創立大会であった。
当日の参会者はこの日
総裁にあげられた鳩山一郎や、
星島二郎・河野一郎・芦田均など
戦時中軍部に冷や飯をくわされて振わなかったが
顔は相当に古い政客と、
これはまたおしなべて威勢はよいが
どうみても品はよいとはいえぬ
えたいのしれぬ
とりどりの恰好をした
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参加大衆であった。
あるものは紋付羽織に袴、
あるものはかなりいたんだ着流しながら
一見なにか共通するものをもつ
この大衆の大部分が、
じつはこの日東京都内各区から動員されたテキ屋の群で、
かれらはおよそ自由主義とはゆかりもない
気強そうな面持ちでガヤガヤと散っていった。
『日当はいくらなんだ、
十円か、いや十五円ぐらい奮発したらしい』と
せんさく好きな新聞記者たちのざわめきは、
やがて
『動員をかけたのは国粋大衆党の笹川らしいぞ』の
ささやきになっていた。
こうして自由党は発足した。
なぜ鳩山が?
話は戦前にさかのぼる。
太平洋戦争のはじまったあと、
民政党の大麻唯男や政友会の前田米蔵らは
政党を解消して東条の陣頭指揮にこたえる
翼賛政治会(略称は翼賛会)を組織、
ついで本土決戦期をむかえるや翼賛会を改組して
大日本政治会(略称は日政会)にきりかえたが、
鳩山一郎や芦田均らはこの時流からはずされ、
同交会や無所属にあって冷や飯をくわされていた。
この仲間には尾崎行雄のような孤独な反軍派もあったし、
笹川良一のような一城の主をもって任ずる
唯我独尊の右翼浪人もあったが、
鳩山の場合、
かれは若槻、岡田ら重臣派から息がかかったことと、
政党政治時代の疑獄事件に名をうり、
軍部のたたいた政党悪の恰好な一標本であったことの
二点からすげなくされ、
鳩山の方もいまさら政友会時代にあらそった
中島知久平や前田らの下風にたつのをいさぎよしとせず、
さらに東条憲兵政治下では多くの人々と同様、
東条を礼讃しないのゆえで、
憲兵隊からときおり内偵をうけるなど
圧迫もあったので、
軽井沢の別荘に隱遁した。
この圧迫は小磯内閣にかわってからはきえ、
むしろ重臣層から情報・忠告をうけて庇護されたが、
かれらのひそかな戦争打ちきり策謀に
参加するほどの勇気はもたなかった鳩山は
そのまま軽井沢をうごかず、
まだ曉のくらいうちから
中仙道を走って馬糞をひろうなど、
せっせと家庭菜園をはげんで食膳をゆたかにする
たたかいに専念していた。
この菜園の斗士のゆえに戦後かれは
『政党!政党!』の波にのって一躍
『反軍の斗士』にまつりあげられ、
日政会の幹部連が敗戦後の雲行きに
あわてふためくころ、
自由党の総裁にかつぎだされた。
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この自由党 前篇 民衆なき政治
1952年9月15日 第一刷
1952年9月20日 発 行 定価180円
著 者 板垣 進助
発行者 小宮山量平
印刷者 斎藤 和夫
発行所 株式会社 理論社
東京都千代田区神田神保町一丁目六四番地
振替口座東京九五七三六番
日協印刷・橋本製本
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