坂本進は明治八年
谷本弥八の四男に生まれた。
若くして坂本与三郎に見込まれ養子となる。
与三郎は、明治初年、
士族をはなれ町民となった小野梓の業跡を継承し、
進はその請託をうけて東京に出て東京薬学校に学び
明治二十八年
薬剤師免許
登録番号第七四三号を取得して故郷に帰り
坂本薬局を開設した。
進は与三郎の一人娘「みよの」と婚姻し
三子を得て家業に勤しむ、
店は薬品の卸、小売り、家庭薬の製造販売配置、
売薬等を営業し、
従業員十数名を抱え繁昌する。
〔画像〕坂本家の墓碑-1
一方 進はその人格、識見によって宿毛町長、
宿毛信用組合長等の公職をも歴任し
行財政にも貢献する。
更に子女の教育にも熱心で
長男 太郎は東大医学部を
長女の養子 陽も東大医学部を出て
独乙に私費留学をし、
名大教授に、
二女 緑の女婿の清三は京大法科をでて
神戸高等商船大教授と
夫々の分野で活躍する。
このように進の六十一才までの半生は
誠に順風満帆であった。
しかし、昭和十一年跡継ぎの
長男 太郎が不慮の急逝をとげ
その後、
年を次いで糟糠の妻 徳恵、
女婿 清三と
三つの逆順の柩を見送らねばならなかった。
〔画像〕坂本家の墓碑-2
※追記:2024-03-21
更に不幸の追討ちは
次第に戦時色となり
大東亜戦に突入し、
敗戦、戦後の南海大震災に見舞れて
相つぐ経済の大変動や社会情勢の激変に
農地買収や預金封鎖など
未曽有のインフラに遭遇し
一徹一途の明治男にとって
誠に不遇の老境であった。
ただ最後の一年は次女綠の手厚い介護の元で
おだやかな日々を送り
安らかに往生されたのは、
せめてものはなむけであった。
正厳院釈心徹居士 進
昭和三十二年五月二十日没
行年八十四才
無量院釈妙慧大姉 妻 御代野
明治三十六年七月十四日没
行年二十七才
信 碑を建て之を誌す
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇