【土佐史談 (155)】1980-11
出版者 土佐史談会
出版年月日 1980-11
土佐史談
通刊155号(復刊76号)
維新殉難志士特集号
土佐史談会
p1【土佐史談 (155)】1980-11
https://dl.ndl.go.jp/pid/7913098/1/1
戊辰戦争凱旋将校(表紙写真解説)
別府彦九郎宜春 胡蝶隊長 (写真上段右より)
北村長兵衛重頼 砲隊長
西山 栄由矩 砲隊分隊長
真辺戒作正精 迅衝六番隊長
片岡健吉益光 大軍監兼右半隊司令
吉本兵之助祐雄 徒士砲隊指揮官 (写真中段右より)
山田平左衛門(喜久馬)清廉 迅衝九番隊長
谷守部干城 大軍監
谷神兵衛重喜 迅衝四番隊長
山地忠七元治 迅衝七番隊長 (写真下段右より)
谷乙猪繁枝 (弱冠十二歳で後続部隊に従軍)
乾(板垣)退助正形 東山道先鋒総督府参謀兼帯
伴権大夫正順 軍監
なお戦争中に指揮部隊の変動したものもある。
https://dl.ndl.go.jp/pid/7913098/1/51
宿毛機勢隊 橋田庫欣
慶應四年一月三日にはじまった
※1868年1月27日
鳥羽伏見の戦いが宿毛に報告されたのは、
一月九日のことであった。
高知から急いで帰った中村進一郎が
これを伝えたのである。
中村は林有造(当時の名は祐次)等に
出兵の必要を説き、
中村等四名は宿毛領主の許可を得て高知に行き、
板垣の軍団に参加することができた。
林有造や竹内綱たちは、
領主山内主馬の嫡子
陽太郎(当時の名は太郎左衛門)の
学問修業のお供をして京都に上ることになった。
中村進一郎らは、
本藩の高知兵と共に松山城攻略に向い、
その後東征軍に従って江戸まで進撃したが、
六月二日再び宿毛に帰り、
戦況を報告するとともに、
領主に対して宿毛兵の出兵をすすめた。
大江卓も宿毛兵の出兵を種々画策した。
だがそう簡単には許可は下りなかった。
林有造の兄の岩村通俊は、
小野義真とともに
大坂の宿毛屋敷に勤務していたが、
大阪府の要路を動かして親兵総取締となり、
陽太郎に出陣をすすめた。
有造は山内容堂に働きかけて
陽太郎の出陣を戦況視察という名目で許可を受けた。
その時ちょうど土佐兵を以て
越後を討伐するよう密旨が下ったので、
宿毛兵の到着をまたず出陣するよう容堂に命ぜられ、
金百両をもらって出発した。
宿毛兵にようやく出陣の許可が下りたのは、
七月十日のことであった。
―略―
この機勢隊には十七才の少年兵小野梓も入っており、
この他陽太郎づきの林有造等も戦場では合流しており、
総勢百十五名となっている。
―略―
https://dl.ndl.go.jp/pid/7913098/1/29
―略―
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―略―
百十余名の機勢隊が、
領主の嫡子陽太郎を先頭にして北越に出征し、
官軍として戦ったのであったが、
その割合には大した戦果もなく、
その功績も大したことではなかった。
しかし、この戦の意義は、
宿毛にとっては実に大きなものがあった。
林有造、竹内綱、中村進一郎、酒井融、小野梓等が
直接機勢隊の一員として戦闘に参加し、
岩村通俊、高俊は共に親兵の軍監として
同じ地域に転戦して偉勲をたて、
明治維新という日本の大転換をみずからの手で行い、
その進路を大局からつかんだのであった。
宿毛に居てはなかなかとどいてこない
中央の情勢をその渦中に入り
身を以て体験したのであった。
その上、これらの人々はそのまま
中央に残って政府の要職につくか、
或は一旦帰郷の上再び中央に出て活躍したのであるが、
若しこの時官軍として参戦した実績がなかったならば、
中央であのような活躍はできなかったにちがいない。
こう考えてくると、
僻地の小さな宿毛から、
後世数多くの人材が輩出した原因の一つに、
この宿毛機勢隊の参戦があったといっても
決して過言ではない。
―略―
https://dl.ndl.go.jp/pid/7913098/1/31
昭和五十年十一月三十日発行
通刊 一五五号(復刊七六号)
発行所 高知市丸ノ内一ノ一ノ一〇
高知県立図書館内
土佐史談会
印刷所 弘文印刷株式会社
電話(72)六三〇七
振替大阪七五七一九
https://dl.ndl.go.jp/pid/7913098/1/52
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