【基督者列伝:信仰三十年】大正10年
著者    警醒社 編
出版者   警醒社書店
出版年月日 大正10
p2【基督者列伝:信仰三十年】大正10年
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《留川一路》
 現住所  福岡縣三瀦󠄀郡大川町
 生 國  大分縣中津町
 所屬敎會 大川日本基督敎會
安政元年二月十九日に生る。
※1854年3月17日
父は山脇藤吉、母をブン、
兄を山脇良市といふ。
出でて留川家を襲げり。

幼にして中津藩儒
大久保氏の家塾に學び、 ※大久保麑山:下記
明治五年(1872)より明治八年(1875)まで
藩立修德館に入りて、  ※進修館:下記に記載
英語數學を修めたり。

而して同年(明治8年)秋より長崎に出で、
米國宣敎師ヘンリー、
スタウト氏の家塾に入學し、
專ら英學を修めたるが、
其間家庭の禮拜に出席し、
聖書の講義を聞くこと一年有餘に及び
信仰の心生じ、
明治九年(1876)十二月廿五日、
長崎一致敎會に於て
ヘンリー、スタウト氏より洗禮を受けたり。

受洗後聖靈の指導と、
スタウト氏の勸めによりて、
宗敎界に献身するの決心をなし、
明治十二年(1879)東京に出で
一致神學校に入學せり。

而して明治十三年(1880)四月、
東京中會に於て傳道者に認定せられたり。
翌明治十四年(1881)神學校を卒業し、
明治十五年(1882)五月
鎭西中會に於て按手禮を受け、
牧師に任ぜられ、
鹿兒島、長崎、久留米の各地に傳道し
明治二十三年(1890)十二月
廣島日本基督敎會に赴任せり。

此の間佐賀久留米等にては
佛敎徒の迫害劇甚にして
暴徒のために危害を加へられしこと
一再に止らざりしといふ。

而して在職五年、
翌明治二十八年(1895)十月より
明治三十年(1897)まで
長府日本基督敎會を牧し、
同年(明治30年)十一月より大正六年(1917)まで
佐賀、唐津、大分、柳河の各地に傳道し、
現任地は福岡縣大川町なり。

松山日本基督敎會牧師《南廉平》、
新潟日本基督敎會牧師《西健二》
梅光女學院長《廣澤藤吉》氏の如き、
皆氏の傳道によりて基督敎に歸依したるなりと。

明治二十二年(1889)一月十八日、
蜂谷元壽氏の妹さめ子を娶り、
惠士、羔二、三郎、四郎の四男あり。
p153【基督者列伝:信仰三十年】大正10年
p153【基督者列伝:信仰三十年】大正10年
大正十年十一月廿五日印刷
大正十年十一月廿八日發行 (定價 貳圓)
編 纂 警醒社編纂
發行者 福永文之助
    東京市京橋區尾張町二丁目十五番地
印刷者 村岡 平吉
    横濱市太田町五丁目八十七番地
印刷所 福音印刷合資會社
    横濱市山下町百〇四番地
版 元 警醒社書店
    東京市京橋區尾張町二丁目十五番地
    振替 東京五五參番
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年03月25日08:46
[小野梓君碑と大久保麑山先生紀念碑]①/④
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年06月22日09:00
《大久保麑山先生》[豊前人物志]昭和十四年三月二十五日發行
中津藩亦徴に應ず、麑山遣中にあり、
後三百間砲臺守隊長となり、又進修館助教と爲る、
癈藩置縣後片端中學校の成るに及び、
明治六年(1873)教授初歩に、
又十五年(1882)中學校教授と爲る、
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年06月22日15:28
《学校長(主長タル者・首座教員)大久保逕三》明治11年~17年
片端中學校
片端學校
中津中學校
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