【日本の思想家 第1】昭和37年
著者    朝日新聞社朝日ジャーナル編集部 編
出版者   朝日新聞社
出版年月日 1962
 井上 毅 《国家機構の制作》 神島二郎
https://dl.ndl.go.jp/pid/2988853/1/81
井上毅自身が憲法起草に参画できるか
いなかの分れ路にたったこのとき、
かれはプロシャ主義をもって
起草方針とすることを主張し、
イギリス主義をとる福澤諭吉および
その余流を排撃すべく決心した。

そこで、井上毅としては、
かれらとむすびついている
参議大隈重信が憲法起草を担当することを
極力妨害しなければならず、
したがって、
半面には伊藤博文を扇動して
大隈重信との対立を激化し、
みずから伊藤博文とむすびつき、
同時に伊藤博文を岩倉具視とむすびつけ、
かれを憲法起草の担当者とすべく鋭意努力した。

一八八一年(明治一四)七月
大隈重信の憲法意見密奏にいきどおって
辞表を提出してひきこもった
伊藤博文におくった十二日付の手紙に、
かれはつぎのようにかいている。
「・・・・・・」
p86【日本の思想家 第1】昭和37年
〔画像〕p86【日本の思想家 第1】昭和37年
https://dl.ndl.go.jp/pid/2988853/1/86
井上毅は、
福澤諭吉の存在を誇大に宣伝することによって、
あんに大隈重信排撃の必要を示唆したのである。

なぜ大隈重信を排撃しなければ
ならなかったかといえば、
かれはすでに小野梓という有力なブレーンが
ついていたからである。

小野梓はイギリス的立憲主義をとり、
この春から大著『国憲汎論』の執筆にとりかかり、
三月には意見書「今政十宜」を大隈重信に呈しており、
大隈重信の憲法意見は矢野龍溪の起草にかかるが、
※下記参照願います
小野梓の意見書も参考にされたはずであり、
小野梓は、病弱の身にむちうち、
血を吐きながら執筆をつづけ、
大隈重信のブレーンとして
精力的に活動していたからである。
p87【日本の思想家 第1】昭和37年
〔画像〕p87【日本の思想家 第1】昭和37年
https://dl.ndl.go.jp/pid/2988853/1/87
日本の思想家1
定価 四百二十円
昭和三十七年九月三十日第一刷発行
編 者 朝日ジャーナル編集部
発行人 朝日新聞社 伴 俊彦
印刷所 大日本印刷株式会社
発行所 東京 小倉 大阪 名古屋
    朝日新聞社
https://dl.ndl.go.jp/pid/2988853/1/174
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年05月07日
《小野梓=士族から平民》「明治14年の政変」
姜範錫=元駐日韓国公使:平成3年
「大隈奏書の起草者=矢野文雄」という図式は間違った説であり、
正しくは「大隈奏書の起草者=小野梓」
という説であることを理解して初めて、
明治14年の政変の全容が掴めるのである。

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2019年12月18日 03:40
明治14年の政変における
小野梓の決定的役割を描く:姜範錫1991
池田信夫 blog
万年野党の起源
2014年04月19日00:30
「明治14年の政変」について補足。
この事件は、名前も地味なのでほとんど知られていないが、
『福翁自伝』にも出てくる重要な政変である。
この保守派と急進派の利害が一致し、
井上毅は板垣などと連携して
福沢・大隈グループを政権から追い出し
プロイセン型の明治憲法を起草した。
これは政変としては大した事件ではないが、
その後100年以上にわたって
日本の「国のかたち」を決める出来事だった。
このとき交詢社グループの考えたように
議会が実権をもつイギリス型の憲法をつくっていれば、
予算が際限なく膨張することを阻止して
愚かな戦争も防げたかも知れない。
また天皇のご決断を仰がずに終戦の決定を下せたので、
原爆投下やソ連の参戦・満州や
樺太・千島への侵攻を防げたでしょう。
この「政策を決める官僚機構と国民に迎合する議会」
という組み合わせが明治時代に定着し、今も続いている。
自民党でさえ、政策立案は議会の仕事だとは思っていない。
すべての政党が万年野党になる拒否権型議会主義は、
明治14年に生まれたのである。
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