【草野惣市小伝】昭和54年(1979)
出版者 草野産業
出版年月日 1979.2
需要家を訪問すれば、
工場の隅々までつぶさに見て廻り、
工員に話しかけてまで、
実態を知り尽くそうとする社長の姿を、
まざまざと想い浮かべたからである。
惣市はこの急報を門司の病床で聞いた。
青天の霹靂であった。
直ちに京都に急行した。
病気のことなどは念頭になかった。
京都に着いた惣市は、
東山の旅宿半茶に会社幹部を集め、
社員を叱責する暇なく善後策を凝議するのであった。
坂本からの債権回収が絶望的であることは、
調査の結果決定的であった。
回収不能金額四千九百万円はあまりにも巨額である。
会社が内密に処理し得る範囲を遥かに越えている。
いかに対処すべきか。
泰太郎は熟慮の末
小田切協和銀行頭取を訪ね、
坂本との取引き実情と今回の顚末とを詳細に報告し、
会社並びに個人の資産状態を提示して、
会社の採るべき方途の判断を乞うた。
会社の解散を覚悟した上での捨身の行動であった。
裸になる臍を固めた泰太郎の決意に、
頭取は少なからぬ好感を寄せられたのであろう。
その助言と処置は温情に溢れたものであった。
坂本の不良債権は協和銀行が一時棚上げする、
坂本以外の焦付き債権は他銀を中心に善処し、
草野の信用維持のため
坂本との取引き実情を内密にせよという内容であった。
小田切頭取のこの計らいは、
泰太郎にとって一生涯忘れることの出来ぬ感激であった。
惣市父子は狂瀾を既倒に廻らし、
文字通り蘇生の思いをしたのである。
父子は勇躍した。
坂本産業の得意先から債権を回収し、
さらにその得意先を足場として
大阪、京都、名古屋方面の新市場を切り開くことは、
惣市社長が進んで買って出た。
坂本の後始末は当然副社長の担当になった。
その坂本整理の段取りはおよそ
次のようなものであった。
まず坂本産業と坂本電器の経営を分離して
電器を倒産させ、
別に坂本商事株式会社を設立し、
この新会社が坂本産業の得意先を引き継ぎ、
しかる後に坂本産業を倒産させ、
最終的に坂本商事の債権事務を草野産業に移譲、
坂本商事を解散するというのである。
坂本商事の社長には山田民蔵氏の就任を懇請した。
山田氏は惣市と同郷の知己である。
上頓野きっての秀才と謳われ、
各地の公務員を歴任した後
京都市助役となり、
退任後そのまま京都に止まって、
紫野大徳寺に在住していた。
惣市は京都に着くと間もなく、
地元の同氏を訪ねて事件の発生を打ち明け、
その援助を乞うたのである。
同氏は或いは知人の弁護士の意見を徴し、
或いは坂本所有の土地を
京都市に売却する可能性について瀬踏みするなど、
さまざまな協力を惜しまなかった。
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年07月05日05:45
[思い出の写真帖]038〔ホテル東園:坂本恭啓社長〕
ホテル東園の前が、坂本電器(株)
坂本電器:京都市東山区清水5丁目
北隣は税務署・京都清水郵便局
[京都市東山区 Part7]
808 名前: 近畿人 投稿日: 2016/03/03(木) 01:09:14
>>798
図書館は今の消防署が出来た時に新設された記憶。
京女近くの東山七条にあったのは区役所だね。
ちなみに今の総合庁舎の場所には
ホテル東園があって、ボーリング場もありました。
〔画像〕〔ホテル東園:坂本恭啓社長〕小野又一
坂本商事の社長就任も快諾された。
余談にわたるが山田氏と惣市との間に、
相互の利害関係のない
〔画像〕p89【草野惣市小伝】昭和54年(1979)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12188731/1/89
同郷人としての交友が生まれたのは、
同氏が大分県臼杵市市長時代、
惣市が鄭重な表敬訪問をして以来のことであった。
その時山田氏は、
突如目の前に現れて草野惣市と名乗る紳士が、
記憶に残る山本家時代のみすぼらしい
鍛冶屋の小僧のイメージと、
余りにも懸隔があるのに驚き、
しばし呆然として惣市の姿を凝視し続けていたという。
〔画像〕p90【草野惣市小伝】昭和54年(1979)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12188731/1/90
草野惣市小伝
昭和五十四年二月二十六日発行
発行人 草野泰太郎
発行所 草野産業株式会社
草野倉庫株式会社
草野不動産株式会社
〠104 東京都中央区銀座三丁目
九番四号(草野ビル)
電話(〇三)五四一ノ二九一一(代表)
印刷所 製本所 笹徳印刷工業株式会社
(非売品)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12188731/1/116
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