【浅草六区はいつもモダンだった : 
 オペラ・レビュー・ストリップ】1984
著者    雑喉潤 著
出版者   朝日新聞社
出版年月日 1984.12

  ロック座の地鎮祭[昭和21年(1946)10月]
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〔画像〕p99【浅草六区はいつもモダンだった】1984
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実はそのころ、
浅草にストリップ常設館(ロック座)が建築中であった。
旧万世座跡である。※万成座
昭和二十一年(一九四六)十月に地鎮祭をやり、
客席四百五十、
木造二階建てのロック座は約十カ月で完成、
終戦二周年の昭和二十二年八月十五日に開場した。
建設、開業時の初代社長草野稲穂さんは、
市川市にいまも健在である。

草野さんは戦争中、
五つの会社と二つの鉱山を経営していたが、
一番大きかったのが中島飛行機の下請け、
日本鋳造工業だった。
中島飛行機は栃木県に疎開していたから、
草野さんも宇都宮に支店をかまえ、
ここで終戦を迎えた。
会社も鉱山も一応整理して、
戦後の情勢を見ているうちに、
復員しながら職のない陸海軍の将校たちが、
つてを頼って草野さんの周囲に集まってきた。
この人たちをたべさせなければならないと、
宇都宮でちょっとした空き地を買って
メトロポリスという映画館を建てた。
建築費が十五万円だったという。
これが当たって大いに日銭をかせいだのが、
草野さんの興行の世界への第一歩だった。

間もなく草野さんに浅草六区でも
映画館を経営しないかという話が飛び込んできた。
宇都宮メトロポリスの成功がものをいったのだろう。
六区では三友館、万成座、有楽館がまだ復興していない。

そのうちどれかを再建してほしいという話だった。
「どうせやるならストリップをやりなさい」
と熱心に時勢の流れを説いてすすめたのが、
東宝社長秦豊吉だったという。

そういえば、
新宿帝都座での”額縁ショー“の仕掛人も秦だった。
草野さんはやる気になった。

松倉宇七という支配人は「ピカリ座」
という名にする予定だったが、
草野さんは、
「六区にあるのだからロック座でいいじゃないですか」
と断を下した。
だからこの名前は、
後に流行したロック・ギターとは関係がない。
あくまで六区の片かな書きなのである。

開場祝いには、
浅草寺貫主大森亮順と
松竹社長大谷竹次郎が祝辞を読んだ。
入場料は七十円だった。
<写真>ストリッパー応募者の面接風景(ロック座で)
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〔画像〕p100【浅草六区はいつもモダンだった】1984
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雑喉 潤(ざこう じゅん)
1929年 神戸生まれ。
1953年 京都大学文学部中国語中国文学教室卒業。
1953年 朝日新聞社入社。
現 在 東京本社編集委員。

1984年12月25日 第1刷 定価1100円
著 者 雑喉 潤
発行者 初山有恒
印刷所 図書印刷
発行所 朝日新聞社
編集・図書編集室
販売・出版販売部
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