ジュリーがいた-表紙
〔画像〕ジュリーがいた-表紙

その頃、木村は京都大学の西部講堂で
ロックコンサート「MOJO WEST」を
スタートさせようとしていた。
中井は、そこをPYGのデビューの場にしたいと言った。

「あの頃の西部講堂は、
 ヘルメットやゲバ棒、火炎瓶が転がり、
 バリケードで覆われた京大の象徴だった。
 そこにPYGを出すというんやから、
 やっぱり、中井さんは並のマネージャーじゃなかった。
 おかげで僕は、反体制を標榜する京都の学生たちから
 『商業主義ナベプロの回し者だ』
 と批判されるんやけど」

全共闘運動は撤退期に入っていたが、
京大では「過激派」による抵抗と闘争が激化していた。

伝説的な演劇やコンサートが開催された
場所として知られる西部講堂のシンボルは、
大屋根の赤い三つの星であった。
この星は、七二年五月にテルアビブ空港を襲撃した
三人のために描かれたという説がある。

生き残ってイスラエルの軍事裁判にかけられた
岡本公三以外の二人、
死亡した奥平剛士と安田安之は
京大工学部の学生だった。

PYGが西部講堂に立ったのは、
京大周辺に常時パトカーが止まっていた時代である。

七一年三月二十日、
京大西部講堂で開かれた
「第一回MOJO WEST」は
二つの伝説的バンドが登場したコンサートとして
ロックファンに長く記憶されている。

ひとつはPYGであり、もうひとつは、
木村が一時、プロデュースした村八分である。

日本語でロックをやるという試みが
同時多発的に生まれた時期で、
村八分もそうした先駆的存在、
コマーシャリズムに乗ることに
徹底的に抵抗した
アンダーグランドのバンドであった。

四九年生まれの
元ダイナマイツの天才ギタリスト、
山口冨士夫と、
腰まで髪を伸ばした
五〇年京都生まれのヴォーカル、
チャー坊、柴田和志が中心で、
マニアックなファンを集めた。

「目がジュリーに似てる」
と自称していた五二年生まれの作家、
中島らもも村八分のために
西部講堂に足を運んでいる。

中島はもういないので、
彼の盟友、五四年生まれの作家、
鈴木創士が語る。

「チャー坊の髪の毛の長さに、
 らもは憧れていました。
 ドロップアウトした時間そのものだから。
 みんな、吸血鬼みたいなメイクして、
 山口冨士夫のギターはめちゃくちゃうまかった。
 コンサートは野次る客席の新左翼と
 すぐに乱闘になるので、
 まだ子どもだった僕らはびっくりしてた。
 PYGの時は見ていないけれど、
 ジュリーが表のスターだとすれば、
 チャー坊は裏のスターだった。
 僕らはどちらも好きだったね。
 二人ともロックだったし、
 カッコよかったもん。
 今にして思うと、
 遠いところにいたように見えた二人だけど、
 実際には近いところにいたんだよね」

山口らが参加する前の出来事だが、
村八分の母体となった
裸のラリーズの初期のメンバーのひとりは七〇年三月、
よど号をハイジャックして北朝鮮に渡っていた。

頭脳警察が、
赤軍派の上野勝輝が書いた
「世界革命戦争宣言」をシャウトして
新左翼のアイドルになるのもこの頃だ。

六ページに亘り当日の模様を
イラスト入りでルポしていた。

そこでは沢田や萩原のファンを
異物として描写してあり、
PYGが野次られる様子もあったが、
総じて好意的な評価だった。

タンクトップにストライプのパンタロン姿の
ジュリーが座り込んでカンカラを叩き、
上半身裸のショーケンがマラカスでリズムをとり、
二人の間で井上堯之がギターを弾くイラストが載っていた。
ジュリーがいたp126-127
〔画像〕ジュリーがいたp126-127

山口冨士夫も、自著でその日のことを書いている。
〈岸部のベースはいい音出してたなあ、
 井上堯之とか大野さんはもちろんよ。
 それで、
 客席の後ろ半分はド汚い村八分を見に来た客。
 若い女の子たちはジュリーやショーケン見て
 キャーキャー言うんだけど、
 PYGの演奏が始まると、
 後ろからは罵声なんだよね〉

〈でもそのジュリーを、
 まるで美空ひばりでも見るような感じで、
 チャー坊は惚れ惚れして見てたけどね〉
(『村八分』)

木村はステージに出て、
「PYGかて、音楽やってんねん。
 聴いたらんかい!」
と怒鳴った。

「よく覚えてないけれど、
 その類のことは言ったのかな。
 音楽を放って殴り合いしていたから。
 あの時代、
 ことに西部講堂は野次ってるやつの方がカッコよくて、
 PYGは標的になりやすかった。
 もうひとつは、
 沢田とショーケンのファンが牽制しあって、
 中に入らずに表にいた人たちもいたわけ。
 だからほとんどが村八分のファンだった。
 そうしたことは全国を回った時にも起こって、
 PYGは全国ツアーが成り立たなかったんやね」
  ―略―
一年たたずに形骸化したPYGに対して、
村八分は七三年五月に
西部講堂で開いたコンサートを収録した
「ライブ」を出した後、解散。
その後何度か再結成の動きはあったものの、
PYGと同じステージに立ってからの
約二年が実質の活動期間であった。

九四年、チャー坊はオーバードーズにより死去。

二〇一三年、喧嘩を止めに入った
山口冨士夫は路上で頭を打って亡くなった。

ドラッグバンドだった村八分だが、
その理由を山口はこう書いた。
当時のミュージシャンの言である。
〈オレたちがドラッグに魅力を感じたのは、
 やっぱりいつもストリートにいられる、
 路上にいられる、
 要するに社会の枠からはみ出ること。
 そこに魅力があった〉
(『村八分』)
ジュリーがいたp128-129
〔画像〕ジュリーがいたp128-129

本書は「週刊文春」
二〇二一年四月十五日号から
二〇二三年一月二十六日号まで掲載した
「ジュリーがいた」に、
新たな取材と大幅な加筆をしたものです。

島﨑今日子(しまざき・きょうこ)
1954年、京都市生まれ。
ノンフィクションライター。
著書に、『森瑤子の帽子』
『安井かずみがいた時代』
『この国で女であるということ』
『だからここにいる』などがある。

ジュリーがいた
沢田研二、56年の光芒
2023年6月10日 第1刷発行
2023年7月5日 第3刷発行
著 者 島﨑今日子
発行者 大松芳男
発行所 株式会社 文藝春秋
    〒102-8008
    東京都千代田区紀尾井町3-23
    電話 03-3265-1211
印 刷 図書印刷株式会社
製 本 図書印刷株式会社
組 版 株式会社 明昌堂
ジュリーがいた-奥付
〔画像〕ジュリーがいた-奥付
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