【児玉誉士夫の虚像と実像:現代の黒幕 (偶像破壊シリーズ)】1970
著者 猪野健治 著
出版者 創魂出版
出版年月日 1970
https://dl.ndl.go.jp/pid/12230040/1/3
汪兆銘工作
昭和十四年三月二十五日――明治神宮社頭で、
捧皇隊の結団式が行なわれた。
同隊のメンバーは、
旧日本塾(のち二月会と改称)関係の
古賀義秋、太田勇、松田文治、小黒将永らを
中心とした十三人で、
その任務は、
仏印(ベトナム)のハノイを脱出して、
上海に向う途上の汪兆銘を香港で迎え、
その身辺護衛にあたることであった。
当時、中国にあって汪兆銘工作の先頭に立っていたのは、
東亜同文書院(在上海・日本側の特殊機関)出身の
岩井英一上海副領事で、
岩井は外務省情報部直属の
”特別調査班“のリーダーとして、
中国関係の各種情報収集にあたっていた。
―略―
日本側としては、早急に何らかの手を打つ必要があった。
だが、軍隊が出動して汪兆銘の護衛にあたったのでは、
”工作“の意味がなくなる。
そこで、岩井英一副領事の推せんもあって、
参謀本部第八課長臼井茂樹大佐は、
児玉誉士夫をその特務に当たらせたのである。
児玉を隊長とする捧皇隊は、
(昭和14年)三月二十七日香港へ出発し、
必要な武器、弾薬は、香港の日本総領事館あてに、
公用の荷物として送られた。
捧皇隊員の身分は、
参謀本部と外務省兼任嘱託であったが、
表面上は王子製紙社員の資格で、
テロにあった場合もそれを押し通すことを要求された。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12230040/1/148
そのための工作は、
外務省情報部の高瀬待郎事務官と
参謀本部の岡田芳正中佐が行なった。
汪兆銘がハノイを脱出したのは、
四月二十五日であった。
香港経由の予定を変更し、
五月五日に上海に上陸、
捧皇隊も香港を引き揚げ、
上海のピアスアパートの岩井公舘に居をかまえた。
汪兆銘を首班とする南京新政権樹立工作は本格化し、
五月三十一日には東京で平沼首相―汪兆銘会談が開かれ、
六月十四日には日本軍は天津の英仏租界を封鎖、
九月入ると支那派遣軍総司令部が設置された。
この時期になると日中の和平工作は
軍部の硬化によって完全に破綻し、
汪兆銘の護衛は憲兵隊の手に移って、
捧皇隊は現地で解散、隊員は帰国した。
ただ児玉は、参謀本部の指示で、
南京総司令部の嘱託をかね、
汪兆銘政権樹立に関する任務にたずさわった。
児玉は、この時期に、
京都の第十六師団長の石原莞爾中将の紹介で、
南京総司令部参謀の辻政信少佐を知る。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12230040/1/149
児玉誉士夫の虚像と実像 定価540円
1970年1月7日 第1刷発行
著 者 猪野健治
発行者 峰村暢一
印刷所 株式会社 凰 翔
発行所 株式会社 創魂出版
東京都新宿区左門町2
四谷産業ビル403号
電話東京(359)8646
郵便番号160
振替東京71352番
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