【対談・出版社のトップは何を考えているか】1977
著者 戸田寛 著
出版者 講談社
出版年月日 1977.4
https://dl.ndl.go.jp/pid/12276304/1/3
21 徳間書店社長
徳間康快(とくま やすよし)氏
昭和50年6月18日 於 徳間書店
[徳間書店]
戦後まもなく出来た
アサヒ芸能新聞と徳間書店が、
昭和二十九年合併して現在に至る。
週刊誌「アサヒ芸能」にみられるような、
大衆向きの雑誌、単行本からスタート、
最近は「十八史略」など硬派ものも出版、
総合出版社として今後が期待されている。
資本金一千五百万円、
従業員百七十七人。
本社・東京都港区新橋4-10-1
電話433-6231
https://dl.ndl.go.jp/pid/12276304/1/120
書店創立までのいきさつ
[徳間康快]
それから、
いま名古屋の中部読売で話題をまきながら活躍している
地産の社長竹井博友君が私の読売社会部時代の友人で、
アサヒ芸能新聞を戦後すぐつくってやってました。
彼は読売の社長の命を受けて大阪に工場をつくって、
大阪読売進出の基礎をつくっているわけです。
大体それができ上がって
「自分は日東新聞という新聞を出したい、
なんとか徳さん助けてくれ」
ということで、
私も根が新聞屋ですから、
まあいいだろうといって、
竹井君と組んで日東新聞を出すのです。
これも悪戦苦闘の末、
借金だらけで遅配欠配、
何日も徹夜で労組におどされて、
結局紙も買えない、
輪転機も回らないでつぶれちゃうわけです。
その借金を竹井君と私が背負い込んで、
そのときの処理方針として、
前から東京タイムズの岡村二一氏に
面識がありましたので、
泣く泣く社屋、輪転機、社員もろとも買ってもらって、
それが東京タイムズになるわけです。
竹井君はノイローゼになっちゃったもんですから、
私は労働組合の終戦処理を一手に引き受けて
解決したわけです。
そうしている間に、
労組の執行部が休刊になってる
アサヒ芸能新聞をなんとか再生してくれというので、
よっしゃというんで社長になって、
同志十五人くらいを糾合して、
ごみ箱みたいな小さな二階を借りて始めるのです。
当時の十五人はいまほとんど
徳間書店の首脳部でして、
山下辰巳君が徳間書店の常務で、徳間音工の専務、
兵頭武郎君が徳間書店営業の重役で、徳間観光の常務、
梨本実君が現代史出版会の常務、
鈴木繁実君が徳間書店の役員で、経理の責任者、
宮本昇蔵君が大徳開発の専務というふうに
いまうちの事業団の中心になっているわけです。
週刊誌のアサヒ芸能新聞はタブロイド判、
内容はスクリーン・アンド・ステージで、
『平凡』が猛烈に出ていたときです。
岩堀さんが非常に活躍したときで、
※岩堀喜之助
私も真善美社で同じ神田の小さな印刷屋で
知ってたんですよ。
私のところは最初いいお得意さんで
扱ってもらったんだけど、
向こうがどんどん出ちゃって、
こっちははずされて、
ああこういうのが売れるのかなあ、
だれがやってるんだろうって聞いたら、
時事新報出身の岩堀という人だ。
『平凡』という非常に平凡な題をつけて
やっていると聞いて
考え込んだことがあります。
それから単行本活動をやろうということで
徳間書店をつくって、
アサヒ芸能新聞社と徳間書店と二つやっていて、
合併する。
徳間書店はことしで
創業二十一年ということになるわけです。
[戸田 寛]
いま徳間グループはどのくらい……。
[徳間康快]
徳間書店を軸にしまして、
ミノルフォンレコードの徳間音楽工業、
日刊紙の東京タイムズ社、
最近参加した大映映画、
それから北海道のホテル、
福島県のホテル、
矢祭カントリークラブを造成中の徳間観光、
印刷部門の新光印刷、東タイ印刷と
いうものを大ざっぱに分けた
メーングループとしながら、
そのほかに現代史出版会とか、
徳間牧場とか、大徳開発とか、
小さいのを周辺に置いていると
いうようなところですね。
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出版社のトップは何を考えているか
昭和52年4月15日 第一刷発行
著 者 戸田 寛
発行者 野間省一
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽2-12-21
郵便番号112
電話東京(03)945-1111
振替口座 東京8-3930
印刷所 慶昌堂印刷株式会社
製本所 株式会社 島田製本
https://dl.ndl.go.jp/pid/12276304/1/181
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