【空駆けた人たち:静岡県民間航空史】1983
著者 平木国夫 著
出版者 静岡産業能率研究所
出版年月日 1983.3
雲井竜子(今井小まつ)が作図した羽衣第1号機
大正12年の雑誌「飛行」より
羽衣第壹號機
設計者 原 愛次郎
製作者 赤羽飛行機工場
製作時 大正拾年五月
發動機製作者 赤羽飛行機工場
所有者 根岸錦藏
完成した羽衣第1号と根岸錦蔵の父、
根岸錦蔵、今井小まつ(右から)
大正10年4月下旬、
東京 赤羽飛行場で
羽衣第1号機上の根岸錦蔵
大正10年4月下旬
https://dl.ndl.go.jp/pid/12063013/1/10
羽衣第1号
大正九年(一九二〇)九月、
福長飛行機研究所を卒業した根岸錦蔵は、
大正十年二月から赤羽飛行機製作所で、
原愛次郎設計の複座機の完成に精力をかたむけた。
これが羽衣1号である。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12063013/1/36
大正九年(一九二〇)十一月であった。
むろんそのままでは使用出来ないので、
主翼以外は全部新造しなければならなかった。
新機といってよかった。
根岸錦蔵には、男の助手二人のほかに、
二十二歳の若い女性協力者がいた。
京都出身の今井小まつである。
彼女も飛行家志望だが、
「そんな軽業師のような者になってもろうては、
ご先祖さまに相済まぬ」
と母から猛反対され、
家出を三回繰り返した後、
ようやく放っておかれるようになった。
大正九年四月、
今井小まつは、
赤羽飛行機製作所が陸軍に納入する
モーリス・ファルマン機に同乗させてもらい、
赤羽から所沢まで飛んだ。
そこでいよいよ病みつきになり、
天竜川沿いの福長飛行機製作所に出掛けた。
練習費用がない故、
なんでもいいから
仕事を手伝わせてくれと頼みこんで、
許された。
その直後、根岸錦蔵が練習生として入所した。
天竜第3号しかないときだから、
練習生にしても思う通り飛べなかった。
そんなとき新聞記者が取材にやってくると、
彼女はあたかも
しじゅう飛んでいるかのように、
しじゅう飛んでいるかのように、
天竜第3号と並んで写真をとらされた。
いわばマネキン代わりであった。
今井小まつに大そう同情した根岸錦蔵は、
卒業して帰京するとき、
父の許しを得て彼女を伴い、
日暮里根岸の隠居所の一室に同居した。
同じ部屋に、
二人の男性助手と合わせて
四人の共同生活が始まったのだ。
世間の眼は、既に二人は
愛人関係にあると思いこんでいたが、
それはかなり後になってからで、
十九歳の錦蔵の念頭には飛行機のことしかなかった。
彼女は、錦蔵にとって同志であり同行者であった。
今井小まつは文学少女でもあった。
雲井竜子というペンネームで、
雑誌「飛行」に随筆や
短編小説らしいものを発表していた。
常連であった。
彼女は、大正十一年一、二月号の「飛行」に、
『可哀いさうな第一羽衣号』という題で、
「羽衣第1号」新生の経緯を書いている。
彼女は、「師、根岸氏」と呼び、
親愛をこめて根岸錦蔵を描写している。
羽衣第1号が完成したのは、
着手してから六ヵ月後の
大正十年四月二十八日であった。
『機は双翼を張って格納庫に納められた。
立派な飛行機だ、
外に優秀機はいくらも有る、
がその困難が大きかっただけ、
尚自分達の手に寄って完成せしめたと云う事が、
此上ない許りで有ったから、
日本一の様な気がして、
気もそゞろ、
少しの間も一つ処にジッと落ちついてゐられない。』
(今井小まつ)
「サクヤ シッカ ヒコウキ ヤク トクコイ」
(昨夜出火、飛行機焼く、疾く来い)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12063013/1/37
アメリカ帰りの飛行家・石橋勝浪の格納庫から出火し、
かろうじて引き出した二機以外は全焼した。
羽衣第1号も姿をとどめなかった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12063013/1/38
空駆けた人たち 静岡県民間航空史
一九八三年三月二五日 第一版第一刷発行
定価二〇〇〇円
著 者 平木国夫
発行者 石川浅雄
発行所 静岡産業能率研究所
浜松市元城町一四八ノ一三
スカイビル5F
電話〇五三四(五五)二三八七
発売所 (株)創林社
東京都千代田区三崎町二の一二の二
電話東京(二六五)八〇七七 〒101
信毎書籍印刷 美成社製本
https://dl.ndl.go.jp/pid/12063013/1/131
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

