【空駆けた人たち:静岡県民間航空史】1983
著者    平木国夫 著
出版者   静岡産業能率研究所
出版年月日 1983.3

 今井小まつ(左)と根岸錦蔵
 大正12年11月、現 川根町家山
p46-1【空駆けた人たち:静岡県民間航空史】1983
〔画像〕p46-1【空駆けた人たち:静岡県民間航空史】1983

 今井小まつ(雲井竜子)と中島式5型機
 大正12年ごろ
p46-2【空駆けた人たち:静岡県民間航空史】1983
〔画像〕p46-2【空駆けた人たち:静岡県民間航空史】1983
https://dl.ndl.go.jp/pid/12063013/1/46

根岸錦蔵は、
静岡電鉄からもらった金で旅館代を支払い、
四名は三保在の農家を借りて移り住んだ。
大正十二年(一九二三)十二月も半ばをすぎていた。
ニューポール式83(甲式2)型機は、
灯台のうしろの松の木にしばりつけ、
漁師から網を借り、
松の木から松の木にわたして、
一応、人がはいれないようにした。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12063013/1/59

今井小まつもまた、
郷里・京都の後援会の援助で買った
払い下げの中島式5型機を、
鶴見の第一航空学校に預けっ放しになっていた。
すると静岡電鉄の熊沢専務が空輸費用を出してくれた。
根岸錦蔵は、今井小まつと二人で仲よく
鶴見から三保まで空輸した。

静岡電鉄では、根岸飛行士後援会をつくり、
幹部社員が格納庫建設の寄付を募るため、
奉賀帳を持ってまわることになった。
電鉄技術部が格納庫の設計をし、
五千五百円という見積額をはじき出した。
清水鈴与商店、鈴与関係の豊年油(株)、
蒲原の田中光顕伯爵が各千円、
残り二千五百円を一般の人に頼るという計画であった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12063013/1/60

 魚群捜査飛行
根岸錦蔵は、魚群捜査飛行の許可を得るため、
熱心に県当局を説得した。
しかし飛べば落ちると思いこんでいる相手は、
一歩もあとにひかなかった。
根岸錦蔵の粘ばり強さは無類のもので、
大正十二年(一九二三)から昭和二年(一九二七)まで、
あらゆる機会に県の有力者はじめ
漁業関係者に運動をし続けた。
しかし相手もまた、少しもひるもうとしなかった。
根岸錦蔵の後援者であり、
県会議長をしている鈴与商店主人・鈴木与平や、
田中光顕伯爵の力添えがあっても陥落しなかった。

ところがようやく開花する時がきたのである。
しかしそれは県当局が理解しての結果ではなく、
大きな政治力に押し切られたのだ。

根岸錦蔵は最後の手段のつもりで、
中央政界の黒幕といわれた
国策研究会の西原亀三に頼ったのだ。
西原は、大正六年、
中国が日本から多額の借款をしたときの立役者で、
西原借款として有名な人であった。
根岸錦蔵の同志であり愛人である
今井小まつの実姉が、
西原夫人だったのである。
そのため静岡県出身の
衆議院副議長の松浦五兵衛が動き、
松本学県知事に働きかけてくれたからであった。

一方、航空局の児玉常雄技術課長が、
井上長一の前例もあるとして積極的に協力し、
年額四千円の補助金交付を認めてくれた。
すると農林省二千円、静岡県二千二百六十円、
計八千二百六十円の予算が計上され、
いよいよ魚群捜査飛行開始のメドがついたのだ。
昭和二年十月であった。

もっとも試験飛行もあり、
実際に開始されたのは翌三年六月からで、
開始に先立ち根岸錦蔵は
一等飛行機操縦士の免状を交付された。
根岸にしてみれば、
五年間の努力が報いられたわけで感無量であった。
使用機は払い下げの
海軍10式艦上偵察機の
民間改造型・三菱R1-2型機であった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12063013/1/63
空駆けた人たち 静岡県民間航空史
一九八三年三月二五日 第一版第一刷発行
定価二〇〇〇円
著 者 平木国夫
発行者 石川浅雄
発行所 静岡産業能率研究所
    浜松市元城町一四八ノ一三
    スカイビル5F
    電話〇五三四(五五)二三八七
発売所 (株)創林社
    東京都千代田区三崎町二の一二の二
    電話東京(二六五)八〇七七 〒101
信毎書籍印刷 美成社製本
https://dl.ndl.go.jp/pid/12063013/1/131
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