【ひとすじの心】昭和54年(1979)
著者 和田芳恵 著
出版者 毎日新聞社
出版年月日 1979.1
https://dl.ndl.go.jp/pid/12567196/1/3
髪結いの名人 伊賀家さだ
https://dl.ndl.go.jp/pid/12567196/1/46
鈴木ハナ(伊賀家さだ)は、
明治三十八年(1905)に静岡の在で生まれた。
父は菓子職人であったから、
店から店と渡り歩いて、
いつも、独り旅を続けていた。
ハナはひとり娘だが、
両親がかわいがり、
娘のために安住の地をもとめて、
沼津へ店を持つことになった。
しかし、大きなことをするには、
東京へ出ることだと、
ハナが小学校へはいるころ、
下谷の池端へ職場をみつけて、一家は上京した。
ハナが池端小学校を出たのは、
数えの十四歳の春である。
ハナの父は、
娘をりっぱな髪結いにしようと思った。
この頃、新橋でいちばん名を売っていた髪結いは、
伊賀とらと桑島千代、
それに大沢たけの三人であったが、
なかでも、伊賀とらは、東京で、
いちばんの名人といわれた人である。
この頃、弟子はみな住み込みであったが、
伊賀とらは仲々ハナを弟子にするといわず、
そのため、幾度も通って、
やっと、ゆるされたそうである。
朝の五時からハナはたたきおこされ、
飯たきや拭き掃除から走り使いと夜遅くまで、
ほとんど休む暇もなかったが、
一週間のお目見えも無事につとめて、
やっと十年間の年期奉公をつとめる
内弟子になることができた。
たった一週間のあいだに、
仕立ておろしのきものの膝が抜けていたそうだから、
およそ人使いのあらさがわかるというものである。
内弟子になった当初、
ハナが、薄い夜具にくるまっていると、
上野の夜桜や、広小路の夜店のことが思いだされてきて、
自然にねむい眼に涙がたまるのであった。
最初のうちは、幾度、家へ逃げ帰ろうとおもったか
ハナはわからないそうである。
「あの頃とは、だいぶ様子もかわりましたが、
伊賀とらの店は、資生堂からはいった、
今の見番の前あたりだったと思います。
私の呼び名は[さだ]ということになり、
下梳き、癖直し三年という女髪結いの道へはいったわけです。
お師匠さんは、たしかに名人だと思いましたね。
この人の手にかかると、
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髪が生きてくるんですね。
大昔の女は、髪を自然に垂らしていたにちがいありません。
働くに不自由なところから、
髪をつかねるようになったのでしょう。
だから、昔の女は、ゆさゆさと自由に伸したままだったから、
生きもののような魅力が髪にあったにちがいありません。
それを結うということで、
窮屈にしてしまうのですから、
どうしても、髪の持つ生命感が失われるのです。
これに生きた魅力をあたえることは、
大へんな腕だと思いますね。
秘伝は、自得するしかないものだと
お師匠さんにいわれて、
そのときは、不満に思ったのですが、
やがて、こういう機微がわかってきたのは、
自分の腕がすすんだときだったのです。
今は、一年半ぐらい学校へ行き、
インターンを経て、三年たらずで、
先生とよばれる資格を持つわけですが、
こんなことで通用するものなら
あまいものだと思いますね。
しかし、こんな考えが古いというんでしょうね。
ここには、弟子が十三人おりましたが、
私は二年めに、もう、下拵えの位置につきました。
こんなわけで、十年の年期も一年早くなり、
二十三歳で柳橋へ店を持つことができるようになりました。
この頃、島田が八十銭ですから、
割のいい商売と言えましょう。
「日髪日化粧」という言葉もあったほどで、
おしゃれも多かったですね。
二十八歳で結婚しました。
私たちの仲間の言葉で、
結婚すれば元結がしまらなくなるといって、
結婚をきらう風があります。
つまりは、やはり職人独特な道楽家業なのでしょう。
私は、佐藤得二さんの『女のいくさ』を読んで、
なるほど、
私たちの世界がよく描けているなあと思いましたが、
あの女主人公のように、
自分の主人に色っぽい勤めをしたら、
とても身が持たないと思いましたね。
―略―
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―略―
あっさり、店をやめてしまったのですよ」
伊賀家さださんは、盆栽の見える庭に向った廊下で、
自分が生きてきた道筋を私に語るのであった。
伊賀とらさんのところでの相弟子は、
ほとんど、まだ、
四十に手がとどかぬうちに死んでしまったそうだ。
その頃の内弟子は、食べものが悪く、
それに、髪結いはきつい仕事だから、
早死にしたのだろうと[さだ]はいうのであった。
[さだ]さんは、伊賀家を継いだが、
伊賀とらこそ、日本髪を結ったら、
日本一の名人だったというのである。
《とら》は、最初は、神戸にいて、髪結いをしていた。
寺の息子で、泉谷祐勝という妻子のある男と《とら》は、
はげしい恋をするようになり、
寺を棄てた泉谷祐勝は、いっしょに東京へ出てきて、
新橋に髪結いをはじめることになった。
※泉谷祐勝
生 明治15年(1882)3月
歿 昭和42年(1967)2月3日
※伊賀とら(伊賀治子)
生 明治13年(1880)前後
歿 昭和20年(1945)7月31日 65歳
これは、
泉谷祐勝が伊藤博文に
眼をかけられていたからだということだ。
泉谷祐勝は、こんなわけで、店の近くに住居を持ち、
《とら》は、仕事を終えると、
その日のあがりを入れた銭箱をさげて、
自宅に帰ってゆく。
内弟子たちは、銭勘定が終ったら、
夜が明けるだろうと陰口をたたいたものだそうだ。
そのように商売は繁昌した。
浅野侯とか、児玉将軍などの邸にも、
《とら》は髪結いに通っていたが、これも、
伊藤博文の息がかかっていたためらしい。
この頃は、まだ、珍らしかった
野球に泉谷祐勝が熱心で、
《とら》は、野球のボールや、
ミットを染めたはでな着物をきて、
内弟子たちを引き連れ、
応援にかよったりしていた。
誰の眼にも、仲のよい夫婦に見えた。
「『女のいくさ』のなかにも、
内弟子と主人が出来るところがあったでしょう」
と、[さだ]さんが言ってから、
「どうしたことか、
泉谷祐勝さんと内弟子のひとりが
関係するようになったのです。
お師匠さんは、気のつよい人でしたから、
黙って見過すはずがありません。
ついに主人を相手の訴訟沙汰になり、
きっぱりと別れてしまったんです。
ところが、このとき、
出入りしていた刑事とお師匠さんができて、
これは、多分に別れた泉谷祐勝さんに対する意地も
あってのことでしょうが、
再婚することになりました。
お師匠さんに男の子がふたりできたのですが、
長男は、どうしたことか、不良少年になってしまい、
《とら》さんの心配の種になりました。
また、出来のいい次男は、今度の戦争で、戦死。
この苦しみがもとで、
大本教の熱心な信者になってしまいました。
こうなると、毎月の利益は、
すべて綾部の本部へ差しあげるようになり、
そのあげく、新橋の店を売り払って、
綾部に引っ越してしまいました。
出口の教祖の血縁を養子にむかえて、
お師匠さんは、大本教でなかったら、
夜も明けない始末です。
それでも、私ども弟子たちは、
お師匠さんさえしあわせならと思ってあきらめたのですが、
もう、別の世界の人だから、
自然に脚が遠のいてしまいました。
ですから、伊賀家は私が継いだのですが、
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これも私の代で終りということになります」
日本髪を結う人も、
やがてはなくなるだろうから、
腕で継ぐ伊賀家がつぶれてしまっても
しようのないことだと、
[さだ]さんは思うらしかった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12567196/1/50
―略―
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ひとすじの心 1800円
昭和五十四年一月二十日 印刷
昭和五十四年一月三十日 発行
著 者 和田芳恵
編集人 吉田掟二
発行人 高原富保
発行所 毎日新聞社
〒100 東京都千代田区一ツ橋
〒530 大阪市北区堂島
〒802 北九州市小倉北区紺屋町
〒450 名古屋市中村区名駅
印 刷 図書印刷
製 本 大口製本
https://dl.ndl.go.jp/pid/12567196/1/187
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【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2018年09月27日 05:15
「伊賀とら」さんのお墓:天王平(綾部市)
[小野雄二]平成30年9月23日
伊賀いせ子[伊賀とら(伊賀治子の姉)]
生 明治8年(1875)前後
歿 昭和10年(1935)10月11日 60歳
伊賀とら(伊賀治子)
生 明治13年(1880)前後
歿 昭和20年(1945)7月31日 65歳
松村正子(伊賀とら 長女)[小野一雄・雄二の伯母]
生 大正3年(1914)1月20日
歿 昭和62年(1987)1月25日 74歳
伊賀光枝(伊賀とら 二女)[松村正子の妹]
生 大正4年(1915)前後
歿 昭和5年(1930)12月15日 15歳
伊賀義男(伊賀とら 長男)
生 大正8年(1919)前後
歿 昭和19年(1944)7月30日 25歳
【大本 松村家代々神霊】を基に作成
平成30年(2018)9月24日
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