【日本絵入商人録】1886
著者 佐々木茂市 編
出版者 佐々木茂市
出版年月日 1886.6
美美新教會
英和學校 總監
フレッド シ、クライン
横濵山手、ヱ、百二十番
明治十九年五月十一日版權免許
同 年六月 出 版
正價 金貳圓
西曆一千八百八十六年
編輯兼出版人 佐々木茂市
神奈川縣平民
神奈川縣横濵區尾上町
四丁目六十六番地
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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【成美学園百年史】1980
出版者 成美学園
出版年月日 1980.10
https://dl.ndl.go.jp/pid/12111050/1/3
ブリテン女學校
横濱山手四十八番
山手120番校舎(明治16年)
創立者 ミス・ブリテン
クライン神学博士
カルハー神学博士
https://dl.ndl.go.jp/pid/12111050/1/4
明治期
ブリテン女学校の創立
明治十三年(一八八〇)十月二十八日、
ブリテン女学校が開かれた。
成美学園がここに誕生した。
ミッションスクール中、
第十七番目の創立である。
当時の宣教方法にならったもので、
学校とはいっても数人の児童、
生徒の集う小さな塾に過ぎない。
先に美普協会では資金をミッションホームに送り、
少数の日本人女児の教育を委託していたから、
これらの生徒がブリテン女史の手もとに
引きとられるという形で出発した。
校舎は山手居留地四十八番館を借り受けた。
この番地は明治四年(一八七一)に
ミッションホームができた場所で、
建物もおそらく同じものであろう。
翌明治五年(一八七二)の秋、
ホームは他に移り、
ブリテン女史がこれを手にいれる直前は、
宣教師バラ夫妻が少年を集めて私塾としていた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12111050/1/24
この間、学校は生徒数の増加に伴って
明治十四年(一八八一)に
山手居留地六十八番に移転、
明治十六年(一八八三)には
さらに百二十番に移っていた。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12111050/1/29
明治十九年(一八八六)、
男女生徒は分かれ、
女子は山下町八十四番に家屋を借りて
横浜英和女学校と改称し、
男子はそのまま百二十番に留まり
横浜英和学校を校名とした。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12111050/1/30
昭和55年10月28日発行(非売品)
成美学園百年史
編集 成美学園百年史編纂委員会
代表委員 永井輝男
横浜市南区蒔田町一二四
発行 学校法人 成美学園
学園長 末包一夫
制作 大洋印刷産業株式会社
https://dl.ndl.go.jp/pid/12111050/1/270
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