【大正のころ:絵はがきだより (ふだん記新書 ; 68)】1978
著者    森実 著
出版者   ふだん記関西グループ
出版年月日 1978.10
p1【大正のころ (ふだん記新書 ; 68)】1978
〔画像〕p1【大正のころ (ふだん記新書 ; 68)】1978
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 綾部城下町の図(綾部町史より引用)
p9【大正のころ (ふだん記新書 ; 68)】1978
〔画像〕p9【大正のころ (ふだん記新書 ; 68)】1978
https://dl.ndl.go.jp/pid/12410041/1/9

   六年生い組
 1. い組の子ども達
六年生のい組は、
綾部町の男子ばかりで五十人位、
ろ組は同じく女子ばかり、
は組は町の端づれに住む生徒達で、
男女組となっていました。

一学年で、いろはと、三組あり、
六学年で約千人となっていたようです。

当時(大正十年)の町の人口は、
ようやく一万に達したと、
聞いていましたから、
丁度、その人口の一割ということになります。

それに、高等科二ヶ年、補修科一年と、
三ヶ年もありました。

全生徒の数は千二百人位となります。
高等科は周辺の村からも通ってきていました。

それで、校名が、綾部尋常高等小学校というのです。
今はそういう学校名はありません。

その頃は中学校へ進学する者は殆んどありませんでした。
事実、綾部町には、女学校がありましたが、
中学校は無く、その代り、
府立城丹蚕業講習所という、
養蚕の学校がありました。
ここは、農家の子が多く入学していたようです。

い組から中学校を希望している者は数名、
講習所へは一人も無かったようです。

田舎町の小学校は、六年間、
殆んど生徒の異動がありませんでした。
四、五年生の頃でしたか、
https://dl.ndl.go.jp/pid/12410041/1/45

綾部に発祥した大本教の信者の子供が三人、
転入してきました。

町の子は、皆んな丸刈りの坊主頭でしたが、
大本信者の子は、女の子と同じような、
おかっぱの長髪に、白い着物、
青色の袴をはいていましたので、
よく目立ちました。

三人共、転入の故か、おとなしく、真面目で、
勉強もよく出来たようです。

当時、町の中を、すみ子二代目教主が、
女だてらに、馬に跨って闊歩していた姿を、
よく見かけました。

大本教がどんな宗教か、全く、
私達にはわかりませんでした。

その年(大正十年)の二月、
大本教は警察の弾圧を受けました。

学校の坂の途中にある、
みろく殿、教主殿、黄金閣の建物は、
そのときは助かりましたが、
本宮山上の神殿は取りこわされました。
本宮山は学校の運動場の東裏にあったので、
昼休みの時間には、よくこの山へ登り遊んだものです。

夢中になって、小さな山の裏側まで行っていると、
午後の授業の合図の鐘も聞えず、
しまったと思って、しょんぼりと、
授業中の教室へ、友達と一緒に入ることもありました。

取りこわされた跡も、すぐ、見に行きました。
けれど、大本教の人達は、相変らず、髪を長くして、
白い着物に袴をはいて町の中を歩いていました。
別段悪いことをした様子もなさそうです。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12410041/1/46
   略  歴
   生いたち
一九一〇年(明治四三)二月
  北海道上川郡旭川町にて、
  父、萬二郎、母、キミの長男として生れる。
  父母の渡道は、一九〇二年(明治三五)
  父、二二才、母、一八才の頃で、
  旭川町にて、商業を営む。
一九一五年(大正四)早々、
  両親と姉と妹と共に郷里、
  京都府何鹿郡綾部町に帰郷、
  四月、綾部幼稚園に入園する。
   学業のこと
一九二二年(大正一一)三月
  何鹿郡綾部尋常高等小学校、尋常科六年卒業。
一九二四年(大正一三)三月
  大阪府豊崎第五尋常高等小学校、高等科二年卒業。
一九二九年(昭和 四)三月
  関西大学第二商業学校卒業。
一九三三年(昭和 八)三月
  関西大学専門部経済学科卒業。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12410041/1/53
ふだん記新書 68
大正のころ―絵はがきだより
一九七八年十月十日 発行
著者 森 実
https://dl.ndl.go.jp/pid/12410041/1/56
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