《吉田花子・吉田五三子・中島襄》吉田医院 丹波町蒲生
【医籍総覧 西日本版】昭和46年(1971)
コメント一覧
1. 藤岡真知子 2026年01月14日 19:18
医籍総覧に、吉田花子の事を書いていただき
ありがとうございました。
吉田花子は、私の母です。
昨年、ネットnoteに、
花子のペンネームで、
母の昔話を書きました。
母が82才のころ、骨折して寝ている時、
面白い話をきき、それを思い出して、
書いてみたくなったのです。
マガジンに、出しました。
いつか読んでいただくと、
医者になったいきさつや、
エピソードを、書いています。
お暇がございましたら、読んでみてください。
母の事書いていただき、嬉しい事でした。
ありがとうございました。
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note 花子
私は子育ても仕事も終わり、残りの命を楽しんでいます。
お金も家も定職もない人が大好きになって結婚し、
忙しかったけれど幸せでした。
そして面白い楽しい人生でした。
もう86歳超えました。
今は海を見て飛び出す魚に感動し、
空飛ぶ飛行機を見て、
その下にすいすいと飛ぶ鳥にあこがれ暮らしています。
桜子先生 1 試験
花子
2024年11月18日 10:56
あらすじ
母は明治44年うまれの女医でした。
当時大都会である大阪商人の娘で、
思いがけず女医になってしまいました。
当時の女性の理想像である良妻賢母と全くかけ離れた、
珍しい職業を持った女性でした。
そんな母が、京都の山奥の村で
一開業医として一生を終えたのです。
-略-
「お母さん、どうして医者になったの」
母は大阪の街で生まれました。
そして大阪女子医学専門学校(現代は関西医科大学)
第一回卒業生でした。
-略-
「わては夢は、英語の先生やった。
でも女学校卒業の時、
大阪に女のお医者の学校ができると聞いて、
友達みんな、
その大阪女子医専を受験するというねん。
その大阪女子医専を受験するというねん。
自分一人だけ英語の学校へ行っても面白くないから、
仕方なしに、みんなと一緒に大阪女子医専の試験をうけた」
「びっくりした」
「その時、合格した者は、わて一人だけだった。※下記
わて困って、お父さんに相談したら、
これから日本は戦争して、女はみな未亡人になる。
医者になっておいたら、一生食うのは困らん」
平川先生やいろいろな先生などは…
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大阪女子高等医学専門学校 第一回卒業
卒業年月日 昭和8年6月15日
卒業者数 80名(女)
【関西医科大学四十年の歩み】1968
出版者 関西医科大学
出版年月日 1968
https://dl.ndl.go.jp/pid/3446566/1/1
教授會顧問
京都帝國大學教授 醫學博士
前田 鼎
豫科教職員
倫理 豫科教務課 主務・教授
コロンビア大學卒業
平川寛三
https://dl.ndl.go.jp/pid/3446566/1/31
卒業生数表
大阪女子高等医学専門学校
第一回卒業
卒業年月日 昭和8年6月15日
卒業者数 80名(女)
https://dl.ndl.go.jp/pid/3446566/1/154
関西医科大学四十年の歩み
昭和四十三年十月十九日刊行
発行者 学校法人 関西医科大学
大阪府守口市文園町一番地
印刷所 洋洋堂
大阪市城東区蒲生町一ノ二五
https://dl.ndl.go.jp/pid/3446566/1/172
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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【醫海時報 (2026)】1933-06-24
出版者 醫海時報社
出版年月日 1933-06-24
女醫會關西支部總會
日本女醫會關西支部總會は去る
(昭和8年)六月十八日
大阪市北區中之島田襄橋
大阪ビル八階に於て開會せられた、
(二)大阪女子高等醫學專問學校
第一回卒業生全部八十名に對する入會歡迎
東京女醫 竹内茂代女史
關西支部長 醫學博士 福井繁子女史
東京より會長 吉岡彌生女史
田川すみ子女史
杉田つる子女史
橘薫幹事の會務報告
大阪醫專の第一回卒業生八十名を
我が會員に迎へ得たことの喜びを報告し、
吉岡會長は登壇して
日本女醫會の創立沿革等を物語つて
此の日唯一人の男性來賓である
大阪女子醫學專門學校 醫學博士
前田鼎氏が登壇して祝辭を述べたが、
神戸の野間女醫
https://dl.ndl.go.jp/pid/11184611/1/20
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【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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