【松廬漫筆】昭和7年
著者 徳江亥之助 著
出版者 徳江亥之助
出版年月日 昭和7
https://dl.ndl.go.jp/pid/1056841/1/2
人見氏と湯屋
茲に帝國憲法の發布を記念するに當り、
私は一人の友人に就き述べてみたいのである。
憲法發布の頃私は、
京都府下丹波の人、
人見鹿太郞氏と共に、
東京下谷區御徒町なる或る茶店の二階に寓し、
實に貧しい憐れな書生生活をしてをつた。
貧書生ながらも私は彼と共に、
空前な斯の大典を奉祝し、
始めて立憲國民としての
聖恩を領土するに至つたのである。
此日たまたま雪降り滿都一面の銀世界、
こゝに突如として要路の新知識、
新人材森大臣の血潮が、
紅點々として白雪に灑がれしは、
今に忘れぬ痛恨事である。
※森大臣
森有礼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
しかし明治22年(1889年)2月11日の
大日本帝国憲法発布式典の日、
それに参加するため官邸を出た所で
国粋主義者・西野文太郎に短刀で脇腹を刺された。
応急手当を受けるが傷が深く、翌日午前5時に死去[8]。
43歳だった。
人見君は實に温厚篤學の士にして、
疾くより經濟と道德との調和論を主張し、
未だ報德敎の世に廣く知られざる頃、
彼は既に二宮翁の人格と、
其の主張とに敬服し、
あらゆる翁の遺著を渉獵したものであつた。
其後彼は京都に歸つて成功せられた。
今現に京都下立賣千本西入に於て、
他の人々からは彼の姓に因つて
人見町と呼ばるゝ一市街が設けられ、
彼は此の町の大屋樣であり支配者であり、
そして慈悲深い旦那はんとして、
多籔の人より尊敬せられてをる。
私は四年前の秋、
久振りにて彼を訪れ、
彼の事業談や懐舊談に
愉快な一夜を明かしたことがある。
そして彼が成功した事業の動機が頗る面白いのである。
彼は始め京都市外の郡部に僅かな畑地を買入れ、
其の真中に唯一棟の家屋を造り、
遠く取寄せた霧島温泉の湯花にて、
此處に湯屋營業を開いたのである。
當時人は其の無謀を嘲笑したる由。
然るに彼は云ふ、
人は兎角之を賤業視すれども、
凡そ商賣として客を心より悦ばし
嬉々として歸らしむるものは、
蓋し斯業の外にあらず。
入る時の汚垢、
出る時の淸淨
何人か快哉を呼ばざるものあらん、
特に勞働者に於て之を見ると。
何時しか彼の親切心が非常の評判となり、
遠近の浴客常に絶えず、
遂には老病者のために保養院を設け
夫れより之を中心として其の周囲に、
穀屋、雜貨店、靑物店、理髪店、裁縫所、
其他必要品販賣の店舗に充つべき家屋を
漸次に築造して人に貸與し、
そして遂に今日の如く市部に迄
連絡する賑かな一市街が生れたのである。
彼が理想の一部も漸く
こゝに實現されしといふべきである。
(大正九年二月〇日)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1056841/1/47
昭和七年十二月 二十日印刷
昭和七年十二月二十五日發行 非賣品
編輯兼 德江亥之助
發行人 前橋市北曲輪町七四
印刷人 根岸龜壽郎
前橋市宗甫分甲三〇九
https://dl.ndl.go.jp/pid/1056841/1/133
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