【岩崎革也年譜 (Discussion paper series ; no.2)】1993
著者    太田雅夫, 森本啓一 [著] [他]
出版者   桃山学院大学教育研究所
出版年月日 1993.10
p1【岩崎革也年譜】1993
〔画像〕p1【岩崎革也年譜】1993
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/1

 岩崎革也年譜
-付 革也略伝・革也宛書簡一覧-
   太田雅夫
   森本啓一
 1993年(平成5年)9月22日 受理
 1993年(平成5年)10月13日 発行
編集発行 桃山学院大学教育研究所
   〒545 大阪市阿倍野区昭和町3-1-64
   TEL 06(621)1181(代)
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/2

 ▲京都府船井郡丹波町須知の岩崎家
p3【岩崎革也年譜】1993
〔画像〕p3【岩崎革也年譜】1993
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/3

  岩崎革也略伝
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/9

3. 特別要視察人と家族たち③
『状勢一斑第四』には、
革也は昭憲皇太后の大喪中も喪章は一切付けないとし、
その理由として
「吾人ハ形式的ノコトヲ好マサルカ故ナリ」
と口外したと記されている。

確かに大逆事件とのかかわりで、
天皇制批判の抵抗という意味のもつ面もあるものの、
革也の形式的なことにこだわらない性格的な側面でもある。

近親の法事をやめてその費用を
ルソー生誕 200年記念会に寄付したり、
これは後述する長男平造の結婚式にも如実にあらわれてくる。

この頃から岩崎家では、おめでたが続くことになる。
すなわち、革也が3回目の結婚生活に入る。
再婚相手の登美子といつ別れたかは定かでないが、
おそらく大逆事件のかかわりで、
万一のことを考えての別れではなかったろうか。

今度の相手は、祇園の芸者であったという山瀬富で、
富は革也の死にいたるまで生活を共にし
世話をすることになる。
しかし、今度も入籍はしていない。
これも革也の
「形式的ナコトハ好マナイ」ということであろうか。

1914(大正3) 年になると、
7月に長男平造が、
早稲田大学政治経済学科を卒業し帰郷して家業を継ぎ、
8月には、長女きぬが、
福田英子の媒酌で小野吉勝(成女高等女学校幹事)と結婚し、
小野を婿養子として迎え分家を嗣がせている。

吉勝は、有香と号し、奈良県吉野郡出身で、
1903(明治36)年4月に早稲田大学高等予科に入学し、
早稲田社会学会に入会し、
永井柳太郎・白柳秀湖ととも幹事をつとめ、
社会主義協会・直行団にも加入し、
「直言」 記者として、
『平民新聞』 「直言」「火鞭」「新紀元」『世界婦人』などに
詩歌を度々発表している。

キリスト教社会主義者で「新紀元」「世界婦人」で
福田英子・石川三四郎・安部磯雄・田中正造・木下尚江などと
昵懇の間柄であった。

早稲田大学政治経済学科を卒業後、
成安高女の幹事兼教師をしていたのである。

次に長男平造は、1915(大正4)年5月に、
これまた福田英子の媒酌で、
藤井豁爾(岡山 中学校校長)の長女和子と結婚した
(戸籍上は11月2日)。

藤井豁爾は、福田英子が最初の結婚話のとき、
軍人は嫌いだといって断った藤井較一の弟である。
吉勝は、福田の世話で早稲田大学時代、
藤井較一の子弟の家庭教師もしていたことがあるという。

結婚式は、岩崎吉勝の東京の寓居で行なわれ、
藤井家親族は藤井較一海軍大将夫人重子、
大審院長横田秀雄夫妻、
控訴院長霜山精一などが列席したが、
岩崎家は岩崎吉勝夫妻のみが参列し、
披露の宴もなく、
翌日に記念品贈呈というものだけであった。

革也は出席せず、「平和の結婚を祝す」
(平造の平と和子の和の結婚で平和) と打電したという。
まさに、革也の「形式的ナコトハ好マナイ」という
仕業というべきであろうか。

ところで、1914年の革也宛年賀状に堺は、
「又々ペンとパンとの新年を迎へ申候、
 それも早やグズグズの中に1日を費し申候」と書いていたが、
1月27日に「へちまの花」を売文社から創刊した。

そして、9月になると数日間、革也宅を訪れ客となり、
「娘十五にして我よりも丈高き春
 白髪ようやく抜をちせさる秋」
と揮毫した(口絵写真参照)。

帰京後、堺は礼として秋水の所有であった遣物の詩に
「大正三年初秋 丹波須知岩崎秋月兄の家に客たること数日
 偶成数首を得たり 貝塚渋六」として、
「既に四年 白髪ぬきつつ文を売る一二の骨を葬りしより後」
など7首の短歌を書き送っている(口絵写真参照)。

1915 (大正4)年3月17日に、
革也は須知町会の一致で第3回目の町長に選挙された。
しかし、
特別要視察人を知事としても
町長にすることはできなかったのであろうか。
4月9日、京都府知事
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/13

大森鐘一は、
「大正4年3月17日付甲第23号 請
 岩崎革也ヲ須知町長二選挙ノ件認可セス」という、
不認可の京都府通知が須知町役場に届けられた。

『へちまの花」5月号には、
この件についての革也の便り
「迂生今回須知町会の一致を以て町長に選挙致され候処、
 京都府知事大森の翁より不認可の達し有之、
 ……前代未聞の出来事、
 此間の消息真に面黒きもの候」を掲載した。
『状勢一斑」にはこの件は触れられていない。
https://dl.ndl.go.jp/pid/13265411/1/14
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年02月03日13:44
岩崎平造 須知本町:【早稲田大学校友会会員名簿】
【早稲田大学校友会会員名簿】[第1冊]大正4年11月調
大学部  政治経済学科  p41/189
大正3年 得業     p50/189
岩崎平造 京都 京都府須知町須知本町 p50/189
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2013年03月14日
[岩崎吉勝:岩崎革也 養子:希望社 經營 勤勞女學校 校長]
【早稲田大学紳士録】
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