【保健体育学研究 (2)】1974-03
著者    関西学院大学 編
出版者   関西学院大学
出版年月日 1974-03
p1【保健体育学研究 (2)】1974-03
〔画像〕p1【保健体育学研究 (2)】1974-03
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  関西学院スポーツ史の研究(Ⅳ)
   倶楽部組織から学校チームへ 米田 満
https://dl.ndl.go.jp/pid/2264044/1/38

  乾行義塾戦の勝利
あの時学院には野球の出来る者は八人だけよりなく、
見物に来た一人、
一高の瀬古君に一塁を守って貰った。

相手の乾行義塾も選手が一人不足で
神戸商業の一人に加はってもらった、
あの時僕等は確かに勝ったね――」
と書いた。

その試合は明治31年6月末に
学院の狭い小石まじりのグランドで行なわれた。
相手になった乾行義塾というのは明治15年、
英国宣教師フオスの設立にかかる
聖公会系のミッション・スクールで、
関西学院と同じく中等教育を授ける各種学校であった。

当時の所在は神戸市内の鯉川筋にあったが、
居留地の外人子弟が多く
仲々に派手な感じの学校であった。
ベースボールの服装もユニフォームから
グラブ、ミットまで立派なものであり、
中にはシューズをはいている者もいた。

関西学院の前時代的な野球スタイルと比べると、
およそ月とスッポンであった。
  -略-
この試合で乾行義塾の方も
8名しかメンバーがいなかったので
神戸商業から1人応援にかけつけたと
乾精末も書いているが、
これがほかならぬ泉谷祐勝であったのだから面白い。
これはのちに乾自身が明言したところによる。

泉谷は明治29・30年と2年間、
学院でベースボールをやり、
この明治31年春から神戸商業に転じて
相も変らず
倶楽部組織のベースボールを楽しんでいた。

乾行義塾のアイダ投手も
関西学院から転じた混血児であったから、
そんなつながりで泉谷の登場となったものであったろう。
泉谷はショートストップの難関を守ったという。

この試合のとき、
普段から選手たちに接触していた
普通部の部長ウェンライトが観戦に来たが、
応援というよりはベースボール党の連中が血気盛んで
よく喧嘩をするので、
それが心配だから見に行ったといわれている。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2264044/1/39

昭和49年3月25日 印刷
昭和49年3月30日 発行
郵便番号 662
兵庫県西宮市上ケ原1番町1番155号
編集兼 関西学院大学
発行人 塩谷 滋
兵庫県尼崎市北大物町25
印刷所 尼崎印刷株式会社
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