【明治期における神戸の健脚競走に関する史的研究
(神戸商科大学研究叢書 ; 46)】
著者 棚田真輔 著
出版者 神戸商科大学経済研究所
出版年月日 1994.1
https://dl.ndl.go.jp/pid/13193633/1/1
2 第五回国際オリンピック大会予選競技会
神戸生まれの東京高等師範長の嘉納治五郎のもとに、
駐日フランス大使のジェラールから、
P.Dクーベルタンの
第五回オリンピック・ストックホルム大会への
参加を勧める意向を伝えられたことが、
「大日本体育協会」を設立させる切っ掛けを作った。
明治44年7月になって
「大日本体育協会」の名称で、
わが国の競技スポーツを代表する
団体が誕生したのであった。
大日本体育協会は、最初の事業として
第五回国際オリンピック大会予選競技会の開催を決定し、
明治44年11月18・19日の両日、
東京市郊外羽田の新設された競技場で
行うことを公表すると共に、
全国の競技者に次のような
競技会応募の檄をとばして、
アピールをしたのであった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/13193633/1/147
2)泉谷祐勝の活躍
彼は、早稲田の野球部がアメリカ遠征した時、
メンバーの主力として加わった人で、
この時は卒業生としての資格で、
大会には百米競走と立幅跳に出場した。
兵庫県神戸高等学校が発行した
『会員名簿』によると、
旧神戸一中の明治35年・第三回卒業生の項に、
泉谷祐勝の氏名が、
のちの神戸一中の校長となった
池田多助らと一緒に記載されている。
それから通常の4年間早稲田大学で学んだとすれば、
明治40年の春には大学を卒業している事になる。
また、同校の同窓会誌の第12号には、
彼の住所が神戸の元町三、善照寺となっており、
同第14号では、
東京、第一師団第一連隊第七中隊第四班となり、
明治43年7月発行の第19号には、
「泉谷祐勝君 正にベースボールのシーズンに入りたれば、
遊園地草青きところに、
君の英姿を見る亦遠きにあらざるべし。
聞く君は かの米油取扱店なる
スタンダード商会に勤務せられると。」
の記載があった。
上記の『会員名簿』によると、
住所は東京都杉並区荻窪一丁目55となっており、
早稲田大学を卒業してから、
一時軍隊に入隊し、
その後アメリカの石油会社のスタンダード商会に就職して、
ずっと東京で生活したものらしい。
また、
この『会員名簿』の第七回卒業欄に野球部で活躍した
佐々木祐哲の氏名があるが、
その行に生田区山本通5の77の1、
善照寺住職とある。
泉谷の4歳下の弟がこの佐々木で、
名前を後に勝磨とあらためている。
さて、問題のオリンピック予選大会における
彼の競技成績は、以下の通りで、
実に輝かしい活躍であった。
百米競走
予選第一回 一着 泉谷 祐勝(早大出) 11秒5分の1
二着 木場貞一郎(東大)
決 勝 一着 三島 弥彦(東大) 12秒
二着 明石 和衛(東大)
三着にも木場貞一郎が入り、
東京帝国大学がこの種目で上位を独占し、
泉谷は彼らに敗れてしまった。
立幅跳
決勝 一等 泉谷 祐勝(早大出) 2メートル73センチ
立幅跳で制覇したが、
この種目の審判及び競技規定は、
以下のようになっていた。
-略-
写真Ⅳ-2 泉谷祐勝が立幅跳で授与された優秀記録証
https://dl.ndl.go.jp/pid/13193633/1/148
の規定(略)に従って競争されたものであったが、
栄えある競技大会での全国制覇であったにもかかわらず、
肝心のオリンピックの代表選手には選抜されなかった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/13193633/1/149
明治期における神戸の健脚競走に関する史的研究
1994年1月20日 印刷
1994年1月25日 発行(非売品)
著 者 棚田 眞輔
発行所 神戸商科大学経済研究所
神戸市西区学園西町8丁目2番地の1
印刷所 交友印刷株式会社
神戸市兵庫区水木通9丁目1-34
https://dl.ndl.go.jp/pid/13193633/1/178
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2013年03月16日07:41
[泉谷祐勝:夫人 鎭子:池田章政(実父」茂政(養父)]
【早稲田大学紳士録. 昭和15年版】
明治三十九年 大學部 政治經濟學科卒業
※明治39年(1906)
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