【京物語】青山霞村 著 昭和5年
著者    青山霞村 著
出版者   警醒社
出版年月日 昭和5
p3【京物語】青山霞村 著 昭和5年
〔画像〕p3【京物語】青山霞村 著 昭和5年
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  自 序
この物語の「ある人」とは何人か知れない。
彼は自分の先祖は豐太閤についてきて
伏見城の瓦を作り、
深草の霞ケ谷に瓦師の新しい村を開いた人、
外祖父は名高い洞ケ嶺の一角に、
種甘藷の新しい村を開いた人の子である、
故に自分も新しい村を開くといつてをるが、
まだ天孫降臨の日向にも、
毛人國の北海道にも尺寸の地をも
拓いたことをきかない。
人間の必需品でもない詩歌を作つて
神と人とに何の善い事をもなし得なかつたことを
折々嗟嘆してをる。
この物語はそのある人が年少の頃から
見い、聞き、遇うた、
ありのまゝの事實談で、
ある人の性格と境遇とを暗示すると共に
京生活の詩的な斷層面を示すものといつてもよからう。
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この本は來年正月行ふことになつてをる
「靑山霞山口語歌創始三十年記念會」
の出し物の一であるが、
都合により少し時期を早めて發行したのである。
 昭和五年八月十七日
   靑山霞村
https://dl.ndl.go.jp/pid/1187597/1/5

   久邇宮さんと少年の話
深草の台巖律師がなくなられた時、
夜法喜堂に大勢の門人が集つて懐舊談をして居つた。

その時高足で三十年近くも村の學校の先生をして居つた、
加藤迂山先生といふのが次のやうな話をした。

それは明治十一二年(1878-1879)頃であつたが、
師の留守に二人の客が來た。

寺には寄宿して漢籍を授けられて居る
十四五歳の少年が二人居つたから、
その一人が應接すると、
一人の客は
「こら台巖和尚は留守か」
と頗る横柄な物の言ひ樣をして尋ねた。

留守ですと答へると、
それぢや元政の塚へ案内せよと言つた。

三本竹の塚へ案内すると、
その時は東海道官線鐵道の京都大津間の工事最中で、
その敷地に取られて薮の中が切り開かれてあつたから、
客人はそれを見てまた
こらこらと尋ねた。

少年は先程から
その客の横柄なのに憤つて居つたから、
自然此方も荒々しい言葉で答へた。

客は更に
「こらこら元政の木像は何處にある」
といふ調子で案内を命じたので
少年は澁々本堂へ連れて行つた。
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客が去ると
少年は玄關の書生部室へ歸つて
「豪らそうに言やがる奴やないか。
 あれは鐵漿をつけてよつたから
 公卿に違ひない」
と話して居つた。

その頃律師は村雲日榮尼公のお若い時分で
學問の御指南を申上げて居られたが、
それから大分日が經つて村雲御所へ行かれると、
話の序に、
尼公が先日久邇宮さんが御越になつた時の御話に、
此間元政庵へ行つた處が台巖和尚は留守で、
小侍が出たから元政の塚へ案内させると、
その小侍め
俺を非道いものに叱りやがつた。

おれは生れてからあの樣に言はれたことはないと
仰せられたと語られた。

師は喫驚して、
歸ると二人の少年を呼出して、
お前達はこの間案内を乞はれた客人に
失禮な物の言ひ樣をしたさうだが、
さうかと尋ねられた。

すると、少年は
「へゑ、先生そりや對手から豪さうに言やがつたから、
 此方も言うてやつたんです、
 ありや鐵漿をつけてましたから
 公卿に違ひありません」
と答へた。

そして師が尼公に聽かれた事を知されたので
二人は初めてその客人が朝彦親王であつた事を知つた。

その時居つた年下の方の少年が卽ち
この話をした加藤先生であつた。

 いまはもう鬢が白かろ宮さまを
 お叱りまうした
 そのわらはべも

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昭和五年十月二十三日印刷
昭和五年十月二十六日發行 定價壹圓貳拾錢
著 者 靑山 霞村
發行者 和田 みち
    東京府豊多摩郡澁谷町字代官山十一番地
印刷者 谷井勝之助
    東京市赤坂區靑山南町三丁目廿五番地
發行所 警醒社
    東京市京橋區銀座六丁目一番地
    電話銀座一五八七番
    振替東京五五三番
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2023年02月16日05:55
《京阪電車》線路の急に曲ってゐる七條の南
【京物語】昭和5年
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エコノミスト Online
週刊エコノミスト Online サンデー毎日
成城大教授・森暢平
2024年7月29日
◇保守強硬思想で欧化政策に反対
 明治維新後、朝彦は「佐幕派」と見られ、
親王の肩書は剥奪され、
1868(明治元)年には広島藩預かりとなった。
広島で謹慎する身である。
のち許されて京都に戻り、
75年には「久邇宮家」の創設を許される。
この時、朝彦は51歳。
他の皇族とは異なり、京都に居を構え続け、
明治政府や明治天皇とは距離を取った。
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