【親和 (201)】昭和45年(1970-09)
出版者   日韓親和会
出版年月日 1970-09
p1【親和 (201)】昭和45年(1970-09)
〔画像〕p1【親和 (201)】昭和45年(1970-09)
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    故 郷
  桃山虔一(李 鍵)
ホテルの二十五階の窓から眺めたソウルは、
はじめて来た異国の街であるかのような
錯覚を起こさせるほどの変りようであった。

私が前にソウルに来たのは、
一九四三(昭和一八)年の五月が最後で、
今度はそれから二十八年ぶりということになる。
    -略-
  「大韓独立万歳!」
    -略-

  安商浩とその妻
祖父(高宗、李太王煕)が急逝したのは
一九一九(大正八)年一月二十二日の
明け方のことであった。

一族の大黒柱であった祖父の死は、
人々を深い愁いに沈ませた。

平素は病気一つしたことのない
健康な人であっただけに、
七十の声も聞かないで世を去ったことは、
ひとしお哀惜の念をそそった。
    -略-
祖父の死因は脳溢血と発表されていたけれども、
巷間には「日本の官憲に一服盛られたのだ」
との噂がひろまっていた。
    -略-
ところで、今度は二カ月前の
一九一九(大正八)年一月にパリで開かれた、
第一次世界大戦後の講和会議に、
祖父がまたもや密使を送ったとか、
送ろうとしたとかいう噂がたって、
それがもとで日本の官憲に
一服盛られたというのである。

祖父を死に至らしめた下手人は、
典医(侍医)の安商浩だとのことであった。

安商浩が名医であったか、
どうかは審かでないが、
彼がソウルで有名な医師の一人で
あったことはたしかである。

一族をはじめ知名の人の中には
この医師の診療を受けている者が
非常に多かった。

幼時ひどく虚弱であった私のことを
「十歳まで生きることはむずかしい」
と予言したのも安商浩である。

安商浩は日本(大阪か神戸)で苦学をして
医術を修めた人で、
妻女は留学先から連れ帰った日本女性であった。

この女性は母のところへも時折挨拶に来ていたが、
あるときなどは私のツーチンボ(通信簿のこと)を
見たいといい張ってきかず、
閉口したことがある。

妻女のこのように
積極果敢な社交性のおかげを蒙って、
安商浩は総督府その他の日本人官吏の中にも
多数の患者を持ち、
それらの家庭にも繁く出入りをしていたようである。

そんなところから
下手人にされたのだろうと思うが、
真偽のほどはもとより不明である。
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〔画像〕p17【親和 (201)】昭和45年(1970-09)
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社団法人 日韓親和会
東京都千代田区猿楽町二ノ五ノ五

「親和」第二〇一号  一〇〇円
昭和四十五年九月十五日発行
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