柴田次男(柴田和志の兄):平成28106日逝去

柴田令子さんから、「ボンチャン」が、
平成28106日午後955分に亡くなったと、
平成28107日午前10時に電話がありました。

 

柴田和志:柴田次男(兄)
写真
柴田次男 向かって右側
深草中学校バスケットボール部で、小野一雄の一年上。
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2166880.html

 

[思い出の写真帖]002-3:追記
〔深草中学バスケットボール:近畿大会決勝:阿倍野体育館〕
後列 左 小野一雄  小坂真一 柴田和志[No.4]
   右 渡辺美千子 三浦卓先生
前列 右 柴田次男
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/4076584.html

 

[思い出の写真帖]019〔深草中学バスケット:OB〕
柴田・小野一雄
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/4298265.html

 

チャー坊の最後のパートナー:石黒朋子さん
<チャー坊(“村八分”)の生と死>
※昭和59(1984) 春頃?
 洛西ニュウータウンのマンションで、
 ボンチャン(柴田次男)とチャー坊(柴田和志)と私(小野一雄)、
 三人で麻雀をした。
 何時も、ボンチャン(柴田次男)が、トップ。
 さすが、プロと納得した。
 《麻雀:玉突き:パチンコ》プロ。
※ボンチャン(柴田次男)曰、
 「麻雀と玉突きは、小野が教えた」
 小野一雄
 昭和40(1965)3月 桃山高校卒業
 昭和41(1966)9月 坂本工業 入社
 この間、《大きい家》(京都市伏見区深草大門町)で、
 よく麻雀をした。
 ボンチャン(柴田次男)と、その同級生、小野一雄、
 皆、麻雀を覚えたての頃だった。
 ある時、徹夜麻雀をしていると、
 隣の部屋から、
 物凄く大きい「鼾」が聞こえて来た。
 ボンチャン(柴田次男)
 「吉村法俊さんや。明日、入る……」
 ある時、麻雀をしていると、
 ボンチャン(柴田次男)
 「今、下(一階)で親父が麻雀している。
  麻雀は、いつも正座でする」
[チャー坊遺稿集]飛鳥新社 20021218日 初版発行
昭和41(1966) 1 父 柴田金三郎 逝去(63歳) p314
           父の仕事を柴田次男(兄)が引き継ぐ。
 私の父親(小野又一)が、
 家庭用の玉突きの台を買ってくれた。
 それを、《大きい家》(京都市伏見区深草大門町)に
 持って行った。
《大きい家》(京都市伏見区深草大門町)では、
 ボンチャン(柴田次男)以外の人の顔を見た記憶は無い。
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2370675.html

 

北白川聖ヴィアトール・カトリック教会
<チャー坊(“村八分”)の生と死>
※小野雄二:談
チャー坊(柴田和志)が亡くなった事は、
彼女(多分:石黒朋子さん)から電話があり、
そちら(小野一雄)に電話をした。
平成6(1994)427日に、
妻(喜代子)と自宅に行った。
ボンチャン(柴田次男)と会い、
翌日の告別式の予定を聞き、帰宅した。
平成6(1994)427日、告別式。
北白川聖ヴィアトール・カトリック教会
告別式で、久しぶりに、
千恵(ちえ)さんと会った。
「この教会のステンドグラスは、
 私(千恵)の彼氏(当時)が、製作した」
と話していた。
又、この教会は、
父(小野又一)の墓がある、
衣笠墓苑を管理する教会である。
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2370674.html

 

六畳と四畳半ほどある部屋
<チャー坊(“村八分”)の生と死>《第6回》
次男が奥さんと、
和志のことだけが原因じゃなかったんですけれども、
別れることになって、 ※昭和59(1984)3月離婚
次男が和志を引き取ったんです。
註:小野一雄
それまで『大きな家』に住んでた時は
よかったんですけど、
父が死んで、
『小さい家』になった時点で、
向かいにちゃんとした『文化住宅』があったんで、
そこの六畳と四畳半ほどある部屋を借りてやってたんですけど
『大きな家』 京都市伏見区深草大門町
『小さい家』 京都市伏見区向島庚申町
※昭和55(1980) 1月 約15年ぶりに、チャー坊と再会。
『小さい家』
チャー坊(柴田和志)と一緒に、
遅い朝ごはんをご馳走の為、入ると、
ボンチャン(柴田次男)が、背広を着て仕事に出掛ける所だった。
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2370670.html

 

《チャー坊の父・柴田金三郎氏》
<チャー坊(“村八分”)の生と死>
柴田次男氏との待ち合わせに指定されたのは、
京都大学農学部の正門にほど近い百万遍にある
喫茶店「進々堂」である。
 ―略―
チャー坊より五歳程年上の次男氏は、
早逝された父君の跡を継ぎ、
〔職業としての右翼〕の道へと選択の余地なく
進まざるを得なかったという。
 ―略―
チャー坊の父・柴田金三郎氏は、
立命館大学時代の後輩で、
のちに法務大臣を務めた
自民党代議士・田中伊佐次らと共に、
敗戦と同時になくなっていた
建国記念日制定のため尽力するなど、
関西でも指折りの民族主義運動家だった。
その父の急逝により、
柴田家は激しく揺れ動く。
チャー坊の実兄・次男(つぎお)氏が
大学を中退して跡目を継がなければ
ならなかったことについては、
連載第一回で少し触れたが、
この出来事は、
まだ中学三年生だった
チャー坊の運命をも大きく左右することになる。
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2370665.html

 

<フジオ=山口冨士夫の弔問>
[チャー坊(柴田和志)の母(つぎ)の葬儀]
<フジオ=山口冨士夫の弔問>
私の記憶では、
お母さん(柴田つぎ)の、お通夜の日か、
葬儀の日の夜に、弔問客があり、帰られてすぐに、
ボンチャン(柴田次男)が二階に上がって来て、
「いま、フジオが来てくれた」
先日、柴田令子(元妻)さんに電話すると、
「フジオちゃんは、コンサートがあり、
 通夜・葬儀に参列出来なくて、
 二人が落ち込んでいる時、
 何日か後に来てくれた」
と話されていた。
<お母さん(柴田つぎ)の入院:久野病院>
お母さんは、向島の家で一人住まい。
※京都市伏見区向島庚申町
 観月橋駅(京阪電車)から、徒歩10分程。
ボンチャン(柴田次男)一家の住まいは、
洛西ニュウータウン。
ボンチャン(柴田次男)に、
お母さんの健康状態を見に行って欲しいと頼まれ、
向島の家にお母さんを訪ねた。
お母さんを見た途端、
体調が悪いのが分かったので、
「具合が悪そうだったら、久野病院に連れて行ってくれと」、
ボンチャン(柴田次男)から聞いていたので、
お母さんに、その旨を話すと、
「分りました。着替えをしたいので、
 近所の□□さんを呼んで来て欲しい」
すぐに□□さんに来て貰い、
※□□さんの名前は全く覚えていない。
着替えを手伝って貰い、
(私は、外で待っていた)
久野病院に向かった。
正確な日数は覚えていないが、
程なく亡くなられた。
ボンチャン(柴田次男)から訃報の電話があり、
仕事を早退して、同僚の車を借りて、
向島の家に行った。
小野一雄
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2370663.html