[村八分ライブ:完全盤CD2枚組]解説2/5
(1992年11月 川村 聖)①
12[村八分:ライブ]ジャケット
 1970年初頭、山口冨士夫はアメリカ帰りの
チャーボーこと柴田和志と出会う。
山口は東京杉並区出身の実力派グループサウンズ、
ザ・ダイナマイツのギタリストとして活動していたが、
グループ解散直後であり
セッションなどに明け暮れていた時期だった。
アメリカでローリング・ストーンズを観て来たチャーボーは、
出身地である京都に戻る前にしばらく東京に滞在し、
山口とバンド結成の構想を話したりした。
1970年4月には、山口(g)、成毛滋(key元フィンガーズ)、
つのだひろ(ds元ジャックス)、石川恵(b後にファーラウト)
から成るセッション「山口冨士夫グループ」が、
日比谷野音で行われた「日本ロックフェス」に出演。
チャーボーは出演者でないのにもかかわらず、
演奏中ステージ上で踊っていた。
チャーボーが日本のロックファンの前に初めて姿をみせたのが、
この時である。

 その後、山口は友人の青木真一と共に
チャーボーの住む京都に向った。
当時の京都は日本のカウンターカルチャーの拠点として、
外国からもヒッピーがたくさん流れてきた街である。
バンド名は未だ決まっていなかったが、
京都で新しいバンドが結成された。
メンバーは、チャーボー(vo)、山口(g)、染谷青(g)、
青木真一(b)、恒田義見(ds)の5人で。
チャーボーを除く4人は東京から移住して来た。
バンドのデビューステージは、
このメンバーに水谷孝(vo・g)を加えた6人で
「裸のラリーズ」として、
1970年7月26日に富士急ハイランドでのイベント
「ロック・イン・ハイランド」に出演して時である。
「裸のラリーズ」は水谷孝の流動的なワンマン・グループで、
チャーボーと水谷は旧知の中にあり、
チャーボーは水谷とバンドを組もうと思ったこともあったという。
以後、バンド名は決まらないままイベントやディスコで演奏、
オリジナル曲を作るなどの活動を続けていたが、
恒田と染谷が脱退。恒田は東京に戻り、
近田春夫のハルヲフォンに参加した。

 新メンバーとして、浅田哲(g)、上原裕(ds)が参加し、
バンド名も「村八分」と決まり本格的な活動がスタート。
村八分としてのデビューステージは、
1971年3月20日の京都大学西部講堂における
「モージョ・ウェスト・コンサート」で、
共演は沢田研二や萩原健一など
元GSのスターが集まったPYGだった。
チャーボー、山口、浅田、青木、上原の5人
メンバーで平均年令19~20歳というこの時期、
6曲入のデモテープを録音しており、
この音源は1991年5月にアルバム『草臥れて』として
京都のインディー・レーベルよりCDでリリースされている。
オリジナルの日本語のロックバンドが
まだ珍しかった時代でもあり、
グラムロックが出現する以前からメイクをしていた村八分の存在は、
あっという間に全国的に噂として広まった。
活動は、西部講堂を拠点として、
京都円山公園。日比谷野音などのイベント、
大学祭にも出演。
九州、北海道ツアーも行っている。
チャーボーの挑発的かつ攻撃的なアクションとヴォーカル、
ステージ後方でプレイする山口のギターは、
マスコミでも取り上げられるようになった。
ステージに登場したとたんにアンプをひっくり返してしまい。
今日の客は気に喰わないから1曲で終わったとか、
かぶりつきのカメラマンを蹴っとばしたとか、
話題性にも事欠かなかったが、
村八分自体はほとんど取材を拒否し、
写真を撮られることも拒んでいた。
村八分は、反体制文化を象徴するグループとして
一部から圧倒的な支持を受けるようになる。
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