[村八分ライブ:完全盤CD2枚組]解説3/5
(1992年11月 川村 聖)②
1971年も終わらないうちに、青木と上原が脱退。
その後の青木は1976年頃から、スピード、フールズなどの
ギタリストとしてバンド活動を再開している。
上原は一流のセッションマンとして
シュガーベイブや沢田研二のエキゾチックスなどにも参加している。
青木に代りベースにはヨッチャンこと加藤義明が参加。
上原に代わりドラムにはカント、
そして間もなく村瀬シゲトに代わった。
しばらく表立った活動がなかったが、
1972年8月の円山公園音楽堂のワンマンコンサートを
皮切りに再び活動を開始。
いくつかのレコード会社が村八分に接近し、
ロンドン録音のアルバムが
東芝から発売予定というニュースが流れた。
1973年、村八分はエレックレコードと契約し、
東京に来てレコーディングセッションを行ったが
その時の演奏はボツになった。
このセッションが終わった時期に山口は、
村八分を脱退する意思をメンバーに伝えたという。
結局、チャーボーの誕生日でもある
5月5日の西部講堂におけるステージを
レコーディングすることになったが、
浅田が脱退してしまったので、
ヨッチャンがベースからギターにコンバート、
ベースにはエーイチという人物が参加し、
ライブは決行された。
この日の演奏は6月25日に2枚組LP『ライブ』
としてリリースされたが、
山口以外のメンバーはヨーロッパに渡ってしまい、
以後の村八分は何の音沙汰もなく実質的に解散していた。
1974年4月10日には、山口のソロ『ひまつぶし』が
エレックからリリースされた。
1979年7月15日、西部講堂にて
村八分は6年ぶりに姿を現わした。
メンバーは、チャーボー、山口の他、
浅田がベースを担当し、
元スラッシュのミッキーこと松田幹夫のギターに、
ドラマー、キーボードプレイヤーという6人編成であった。
頂度、パンク~ニューウェイブのムーブメントが
日本でも盛り上がりつつあった時期だったので
“元祖パンクが復活”と話題になり、
テレビ番組「11PM」にも出演し
「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」と
「ロール・オーバー・ベートーベン」のカバー2曲を演奏した。
しかし、村八分の再結成はこの時限りで終わった。
以後、山口は1980年に裸のラリーズに加入、
1983年からは本格的にソロ活動を開始。
青木真一と共にタンブリングスを経て、
1987年にティアドロップスを結成し、
1989年には東芝EMIよりデビューしている。
チャーボーは、1990年秋よりバンドを結成、
『村八分』としてマイペースながら音楽活動を再開している。
(1992年11月 川村 聖)