[村八分ライブ:完全盤CD2枚組]解説4/5
浅沼 勇 インタビュー①
浅沼 勇 インタビュー①
――村八分との出会いはいつ頃だったんですか?
また、その時の印象は?
浅沼 最初に加藤和彦君の紹介で ※1:加藤和彦
おもしろいグループなんで検討してくれという話だったんです。
ライブレコーディング(1973年5月5日)の半年くらい前ですね。
2度ほど円山公園でのライブとかリハーサルを見て、
非常に興味を引かれたし、
ステージとリハーサルとのギャップがあったので。
当時の自分とこのアーティストも皆そうでしたけど、
例えば喫茶店で一緒に話していて誰も気付かない、
しかしステージに出たとたん巨人になるような…
そんな存在感を村八分にも強く感じました。
普通の時はやんちゃな少年という感じでしたね。
――加藤さんは初めに東芝の石坂敬一さんに ※2:石坂敬一
村八分を紹介したという話もありますよね。
浅沼 レコード会社が手を出せなかったんですよ。
加藤君としては何処でもよかったわけで、
それで相談に来たんですよ。
で、ウチならやれるからやろうか
という話になっただけで。
僕自身もエレックやってましたけど、
フリーの部分が強かったから各社と仕事をしてたわけです。
だから石坂の所でもいいし、
三浦(光紀)君のところでもよかった。 ※3:三浦光紀
しかし何処って問題じゃなかった。
やっぱり皆怖がったんですね。
コントロールする人がいないと誰も手を出せない。
石坂もすごく苦しんだとおもうんですよ。
一生懸命いろいろ話はしたみたいですけどね。
ビートルズとかストーンズの映画見せたりとかね。
でも、やっぱりまだ少年たちだったから言うこときかないし、
ちゃんとした契約書を交してやる仕事は怖かったんでしょうね。
――結局エレックで、というのは?
浅沼 当然若い人が聴いてしかるべき音楽をね、
世に出せないレコード会社とか出版社に対しては、
じゃあ全部自分が引き受けようということだったんです。
(吉田)拓郎とか泉谷(しげる)、佐渡山(豊)もそうだし、
当時はレコ倫に引っかかっちゃう部分がたくさんあったし。
ようするに全部引き受けてたんですよ(笑)。
村八分の音楽は当時の京都の一部だったんだけども、
ひとつの歴史の中に残しておいていい音楽だと思った。
だけど誰もやらない、ならウチがやる、と。
――ライブレコーディングの前に、
東京のエレックのスタジオで録りましたね。
それは出来がよくなくてボツになったんですか?
浅沼 よくないですね。
その時2週間スタジオに入って
結果的にいいトラックが録れてなかったということです。
当時としては本当に破格で彼らのために、
イギリスから第一線級のミキサー呼んだり、
新しく16チャンを入れたり、
ドルビーとか買ってきたりしたんです。
だから機械面の拡がりとしては
その後の日本の音楽に貢献してますよ。
プロデューサーとしての判断で
最初の4日間の時点でやめとうと、
君たちの音楽は地元でやるべきだ、と言ったんです。
そこで一番いい機材を持ちこむからそれをナマで録ろうと。
やっぱり不良少年なんですよ。
彼らもスタジオにいる時、
「やっぱりナマじゃなきゃできない」っ何回か来たんです。
冨士夫だけはなんとかがんばってくれたんだけど、
他のメンバーがね「熱が来ないから出来ない」って…。
だから、逆にマルチじゃなくて、
そんな新しい機材入れないで一発録りだったら
けっこううまく録れたかもっていう部分もありますね、
もっと気楽に出来るコンディションであれば、
スタジオレコーディングも出来たとも思います。
あの曲の中から1曲ブルースを ※4:ブルース〔序曲〕
ライブ盤に入れてあるけど、
あれが一番いい。
――チャーボーと冨士夫以外のメンバーチェンジが頻繁でしたけど、
各メンバーの役割というか位置付けはどんな感じでしたか?
浅沼 はっきりいってあの2人は飛び抜けてるよね。
だから、あの2人が何か作っていくため必要な人間が
必要な時に揃っていくのが村八分だったという気がする。
当時は、チャーボーのリズムの間をぬって来る声がすごく好きで、
何歌ってるかわからないんだけど、
とにかくイイんだよね。
例えば、ポップス歌ったらすごく売れただろうと思うもの、
はっきり言って。
村八分ってえらいハシリぐせがあったんだけど、
スネアがパシッて終った時にピタッて語尾が来てるとか、
ああいうことって今のロックバンドに出来ないよね。
ロックンロールって音楽的には非常に簡単でしょ。
3コードで、リズムも2つか3つしかないワケだから。
それをあそこまで高められていたからね。
――本当はどんなレコードにしようと考えていたのですか?
浅沼 正直言って伝説以外にも
充分聴き応えのあるレコードを作りたかった。
ストーンズがいくらワイルドであっても、 ※5:ストーンズ
キースがずうっと1人でスタジオひ入って3日も4日もかけて
1曲練り上げていく姿を見てたから、
ああいうの出来ないかなって。
それを冨士夫に話して出来たのが『ひまつぶし』なんだけどね。
村八分全体としてのグループサウンドと同時に、
冨士夫のギターとチャーボーの歌だけでやってみたかった。
当時、いろんな可能性があったと思う。
だから、しっかりとしたマネージャー欲しかったなあ、本当に。