[村八分ライブ:完全盤CD2枚組]解説5/5
浅沼 勇 インタビュー②
浅沼 勇 インタビュー②
――このアルバムのライブレコーディングの日は
前もって宣伝とかはあったんですか?
浅沼 全然ないです。変な噂がとんじゃって
ライブの日に全学連がなだれこむなんて
さんざん言われたんです。
僕は全学連にすごく強い立場にいたので、
絶対大丈夫だと、
ただそんな噂を広げて騒ぎになって、
何千万もする機材やられちゃうと大変だからね。
けっこう秘密でしたね。
この時、チャーボーがひとつ不満に思っていたのは。
控室が教室なワケ。
そこから西部講堂まで約100mあるんだけど、
そこをロールスロイスで走りたいって言ったんだ、
アイツは(笑)。
僕は加藤(和彦)君に
「かまわないから買って来い」って言ったんですよ。
でも間に合わなかったんですよ(笑)。
――どんなファン層が集まったんですか?
浅沼 客は凄かった。
例えば5月でも毛皮巻いて、みたいな女とかね。
それもイイとこの年令高い。
当時の加藤の女房のミカのグループとか、 ※6:ミカ
ああいう連中ですよ。
スターへは一直線だったよね。
惜しかったなあ。
――アルバムの歌詞カードは実際に歌っている詞と違う部分が
いくつかありますよね?
浅沼 あれは彼らの友だちが書いたんです。
私は村八分をずっと聴いててよく知っているからとか言って…。
――ライナーノーツで浅沼さんが書いておられる
ヨーロッパツアーとは?
浅沼 オランダに行きたいって言いだしたんです。
僕がアムステルダムでのストーンズの話をしたのと、
あと(マリファナが)フリーでしょ。
たまたま僕の子分が3人くらい向こうにいたんで、
そんな話をしてたらすぐ行くって(笑)。
じゃあ、アムスじゃしょうないがないから
そこからロンドンに入れと。
キース(リチャーズ)の仲間たちも紹介するから、
そこにこちらから加藤君を送り込むから
ロンドンでレコーディングしろと。
当時の日本では初めてだから、
そういう形でやっちゃったらどうだということで。
だからあのライナーの段階ではそういう話だったんですね。
それでその後冨士夫が、
村八分はとりあえず一度解散すると言って来たから、
どういうことだって聞いたら、
チャーボーは行っちゃうと、
冨士夫は日本に残ると。
村八分みたいのは外国にもいなかったから、
似てるといえばストーンズだけど、
あれくらいトンでると
当時のロンドンだったら必ず当たったと思います。
だけど、グループサウンズが一人で行ったってしょうがないし。
まとまって行かなきゃ。
――当時、セールス的にはこのLPは売れたんですか?
浅沼 売れてますよ。
初版は2万セットくらいからスタートしています。
バックオーダーがあったくらいですから。
僕が作った中では多い方じゃないですけど
ロックのレコードだったらイイところ行ってるでしょう。
――評価の方はどうだったんですか?
浅沼 誰も評価しないですよ(笑)。
村八分自体コワモテだったし、
自分自身も業界では物凄いコワモテだったから、
「何か書いてみろ!この野郎」ってのがあったんでしょう。
プロモートしないことがプロモート。
今でもそうでしょ。
伝説になっちゃって、なんにも出てないから
逆にこんなに話題になる。
でも、彼らとの付合いは楽しかったですよ。
他のアーティストみたいに長い付合いになりませんでしたけど。
(1992年10月20日)
サディスティック・ミカ・バンドのリーダー
※2 ビートルズ、T・レックス等のディレクターでもあった。
現在 東芝EMI
※4 本CDに収録されている「序曲」のこと。
※5 浅沼氏は1960年代からローリング・ストーンズと交流がある。
※6 元サディスティック・ミカ・バンドのヴォーカル。
現クリス・トーマス夫人
●あさぬま・いさむ
1950年代よりギタリストとして活躍。
日本音楽院の社長を経て、
1969年エレックレコードの設立と同時に
専務兼プロデューサーになる。
現在もプロデューサーとして
数多くのヒットを生んでいる。
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2008年11月27日
元エレックレコードプロデューサー、浅沼勇さんとの再会
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