《奇美実業、董事長、許文龍》*総統府国策顧問:講演会・平成10年
演題「植民地時代と今日の台湾の比較」
小野一雄様
ご無沙汰しております。
如何、お過ごしですか。
私も、在台3年を過ぎ、台湾の生活にも随分慣れてきました。
ところで、今日、日僑協会例会に行ってきました。
いつも、講演と昼食という形式です。
参加しようかどうしようか、少し迷つたのですが…。
演題「植民地時代と今日の台湾の比較」
《奇美実業、董事長、許文龍》*総統府国策顧問
とあり、少し興味をひかれ、参加しました。
非常に良い講演でした。
当然、流暢な日本語で、内容も教養と信念に満ちたものでした。
肩書きの通り、李総統とも、交流があります。
李総統に、「古事記伝を読んだかと質問されたそうです。」
許氏は回答は言いませんでしたが。
李総統は「古事記伝」も読んだそうです。
日本人より、日本文化に造詣の深い人が
台湾にいることを改めて痛感しました。
講演の冒頭、
許氏は、「後藤新平」の胸像を、交流協会に寄贈しました。
理由は、現在の発展した台湾の基礎作りをした
最大の貢献者は「後藤新平」であるのだそうです。
彼の統治思想が素晴らしい。
「生態学」的、「生物学」的思想によるものだそうで、
台湾の風俗・風土に適した統治を行ったそうです。
例えば、当時の大きな問題として、
「阿片」があったそうです。
この問題は、大陸よりも深刻で、
禁止しなければならなかったのです。
でも、急に、禁止すると問題も大きいと想定されたので、
禁止にはせず、
阿片常用者に阿片免許を与えたそうです。
そして、阿片を政府専売にしました。
しかし、新規の阿片免許は交付しませんでした。
時間の経過ともに、阿片患者は減りました。
そして、専売により、大きな利益を上げました。
当時間題になっていた衛生問題(コレラ…)解決に、
その利益を投下し、
衛生問題を解決したそうです。
それまでの統治者は、力(武力)で、
統治しようとした人が多かったようです。
軍人の人がそうであり、乃木将軍もそうだったようです。
そして、後藤新平時代に、懸案事項が多く解決されたそうです。
治安問題もそうです。
治安悪化の原因であった
「やくざ」
(この表現はいいかどうか?
かれらは、地方自治を仕切っていたようです)
をうまく使ったようです。
過去は間わないから、でてきなさい。
そして、彼らに土木工事という職を与えたそうです。
また、その「やくざ」は、住民から、税(?)を徴収していました。
当然、時の政府も税金を徴収しており、
ある意味で、二重の税金が必要でした。
このように、問題解決方法が、
流れにそった「生態学的」な考えにより、行われました。
庶民にとつて、念願だった「衛生」「治安」「税金」
という大きな問題が解決されたそうです。
ご存知のように、時の台湾総督は、児玉源太郎ですが……。
とにかく、台湾にとって、
「後藤新平」は大きな存在であったということです。
日本は、良いことをしたのだ。
日本統治がいやなら、2年以内なら、
自由に大陸へ帰つてもいいという方針を出しました。
その後、台湾がすべての面でよくなり、
大陸から多くの人が台湾に渡ってきたそうです。
とにかく、庶民にとっては、よかったのです。
あの「満州国」でもそうで、日本の侵略というが、
日本の統治のお陰で、いろいろな問題が解決され、
豊かな国になったそうです。
その証拠に、満州国の周辺の華北から、多くの人が移住し、
あまりにも多く、ストップしたそうです。
だから、庶民にとっては、素晴らしいことだったのです。
日本は、良いことをしたのです。
時の政権にとっては、不都合かもしれませんが、
庶民にとっては、素晴らしい統治だったのです。
だから、謝ってばかりいる日本(日本政府)は、相変わらず駄目だ。
このような話でした。
ここが、韓国との大きな違いでしょう。
他人の欠点ばかり指摘して、自分の欠点を認めようとしない。
でも、台湾の人は、日本の良さはきちんと認め、
自国の非もきちんと認める。
この前、あった日本人も、韓国人はいやだ。
商談中にも、すぐに「あの話」をするそうです。
その人は、何度か席を立ったそうです。
「そんなことを言うなら、取リ引きをしない」
こう言ったそうです。
そういうと必ず、次の日に謝りにくるそうです。
韓国人と商談する人は、必ずといっていいほど、
こんな場面に遭遇するそうです.
台湾人とは、雲泥の差です。
ところで、当日配られた資料を送付します。 ※①
では、お元気でお過ごしください。
民国87年3月6日 ※民国87年:平成10年(1998)