《植民地時代と今日の台湾の比較》1/4
奇美実業 許文龍 董事長:1998年(平成10年)3月6日
1998年3月6日 日僑商工例会
許文龍氏講演会写真風景
※本文5頁をご参照ください
伊那商工会議所青年部台湾来訪写真
《植民地時代と今日の台湾の比較》
(1998年3月6日 工商会例会講演)
奇美実業(股)公司 許文龍 董事長
私は許文龍と申します。
ここでお話し出来る事を光栄に思っております。
先ほど交流協会に寄贈した
後藤新平さんの銅像にまつわる話ですけれども、
実は私がこの像をつくろうと考えたのは、約30年前です。
私は1928年(昭和3年)に生まれまして、
終戦の時はちょうど17才で、
植民地時代の台湾がどうであったか
という事はだいたい知っているわけです。
それに父、母から聞いた話をひっくるめて考えると、
今日これだけ繁栄した台湾にとっての最大の功労者は
後藤新平さんだと思います。
みなさんが入ってこられた
このホテル(国賓大飯店)の前の中山北路は
明治時代末期につくられた40メートル道路です。
当時、後藤新平は台北でいきなり三車線道路、
40メートルの道路を四本作つたのです。
その時代には大風呂敷と攻撃されたんですけれども、
それくらい彼は非常に先見の明があって、
台湾の今後はどうあるべきか
という事を企画し実施したわけです。
彼は確か仙台の出身で、
若い頃は非常に苦労されたようです。
最初はお医者さんだったため、
彼が政治家に転身した後の物事に対する手法は
生態学、生物学的な手法でした。
彼が行政長官として来たのは
ちょうど四代目台湾総督一児玉源太郎の時代でした。
当時、反日ゲリラ問題で非常に混乱していた台湾において、
まず一番大きな問題は阿片の問題でした。
私の祖父も阿片を飲んでいまして、
私の子ども時代の記憶では、
台湾での阿片は大陸よりもさらに普及し、
大きな弊害をもたらしていました。
その台湾の阿片問題をどうするかという事で、
後藤新平さんは確か日本政府に対して意見書を出し、
暫禁説という方法を主張しました。
つまり、
阿片をすっている者が急にやめるという事になると、
厳重な問題が発生しますので、
阿片をすっている者にはライセンスを与え、
政府が専売で販売し、
また、新たなライセンスは出さないという事で、
段階的に阿片の服用を禁止するという方法です。
もう一つ面白いのは、
政府が専売をやる際、台湾の保甲制度を利用して、
つまり地域ごとに一人の保正、
今で言えば里長という者に販売の代理権を与えますが、
その代わりに治安維持に協力してもらいます。こ
p6〔の方法は非常に成功し、〕
の方法は非常に成功し、
台湾政府はそこで浮いた金でもって、
台湾の衛生状態の改善を行いました。
実は当時台湾に上陸した日本軍のうち、
病死した人の数は戦死した人の数の三倍です。
こういう風土で熱帯病にかかり、
たいがいの兵士は病気でやられてしまいました。
コレラ、チフス、ペストが毎年流行し、
それを如何に撲滅するかが
当時の台湾にとって最大の問題でしたが、
後藤新平さんは阿片から上がつた利益でもって
これをやったわけです。
もう一つは台湾のゲリラ、いわゆる「抗日」、
日本に抵抗した人達の問題です。
歴史にはそう書いてありますけれども、
私は彼らがそんな立派な事をやったとは考えていません。
というのは清朝当時は都市を中心として、
郊外は税収の時に税金を取りにいきますけれども、
治安というのはその地方のやくざが分担しているわけです。
当時の台湾は衛生状態、治安状態が悪く、
地方に行くと無政府状態でした。
そういう時に、
後藤新平さんが取った方法は非常に立派でした。
彼は各地域に利益を与え、
治安問題を解決してもらいました。
反日、いわゆる抗日の人たちを
今は非常に高く評価しているんですけれども、
私が評価しない理由は、
彼らの大部分は中間搾取層だからです。
要するに庶民は誰が上に立ってもいいんです。
秩序があって、治安がよく、税金がそれほど高くない、
それでいいわけです。
父、母から聞いた話では、
日本人が来て、まず治安が一挙に良くなり、
衛生状態もよくなったようです。
それから、守る法ができました。
もう一つは税金も前と比べてかなりよくなりました。
私の歴史観はまず、庶民から見た歴史を重視します。
みなさんの手元にある「台湾の歴史」というのは、
私が五年前に従業員の教育という事で
しゃべったものなんです。
実は国民党が来てから、
ず一つと反日教育をやっているので、
年配の方以外はほとんど昔の事を知らずに、
日本は非常に悪い事をした、
という事しか頭にないわけです。
これでは将来の台湾をさらによくする意味においても、
大きな弊害があると思って、
私はこういう植民地時代の事を
ちょっとしやべったわけです。
過去300年の台湾の事を考えれば、
まずオランダ人が来て、
それから鄭成功が来て、
清朝を経り、
今度は日本の植民地になって、
そして蒋介石が来たわけですけれども、
その中、
台湾と台湾の人民にとって一番貢献があったのは
私は日本だと思っています。
第二位をもし取れば、それはオランダです。
鄭成功と蒋介石というのは
台湾の人がみな民族英雄と言っていますが、
日本では「国姓爺合戦」と言って、
おかあさんが日本人だったせいか、
鄭成功がかなり高く評価されていますが、
国民党政権と
p7〔似たり寄ったりだと思います。〕
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奇美実業 許文龍 董事長:1998年(平成10年)3月6日
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《奇美実業、董事長、許文龍》
*総統府国策顧問:講演会・平成10年
演題「植民地時代と今日の台湾の比較」
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