《植民地時代と今日の台湾の比較》2/4
奇美実業 許文龍 董事長:1998年(平成10年)3月6日
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似たり寄ったりだと思います。
要するに、
私の歴史観は庶民にとってどうであったか
という事が大事だということです。
現在、台湾には外国企業がたくさんありますが、
台湾企業と外国企業の待遇の差はかなり縮まってきました。
だいたい20年、30年前でしたら、
アメリカ企業、日本企業だと聞くと
みな殺到していたわけです。
ところが、経営者はアメリカ人、日本人です。
これについて本に書かれている事は
外国人による経済侵略ですが、
庶民にとっては、待遇のいい会社、
仕事しやすい会社であれば一番いいわけです。
そういう意味で考えれば、
やはり今日の台湾の基礎は日本植民地時代に作られ、
それが衛生、治安の悪い状態から、
現在アジアでは日本に次いで立派な台湾を建設したのです。
そしてやはり日本の50年間の植民地統治、
特にその中でも後藤新平さんの貢献が大きかったと思います。
例えば、先のゲリラの話になりますけれども、
後藤新平さんが来るまでは武力で鎮圧しようという事で、
乃木大将とその後に来る人達はみな軍人ですので、
やはり力で押さえたいと考えていました。
それに対して、後藤新平は生物学者であり、
力ではなく、
まず台湾人の習慣に関して徹底した調査を行いました。
台湾人はどういうものをほしがっているのか、
どういう方法でやった方が一番いいのかについて、
まず徹底した調査を行いました。
そして彼はゲリラに対して、
過去を咎めないので投降しなさいと呼びかけました。
投降した後、土木工事をやらせます。
インフラ建設が始まった時ですから、
仕事はいくらでもあります。
日本でも土木工事となると、
昔はやくざが一枚かんでいるような状態ですけれども、
それと同じように、
後藤新平はそういう
日本に反抗する人たちに対して投降させ、
仕事を与えたわけです。
それでだいたい2、3年の内に、
ほとんどの家は夜に戸締りする習慣がありませんでした。
泥棒がいないんです。
いてもコソ泥で、
せいぜい放し飼いにしている鶏を取る程度で、
治安というと、
恐らく当時世界で一番よかったのではないかと思います。
治安がいいという事は非常に大事な事です。
例えば最近台湾で色々な誘拐事件だとか、
台南では一週間前に誘拐事件があったわけですけれども、
そういう目にあった場合に、
何はさておきやはり治安が大事だと思うわけです。
そういう事を生物学的に、
台湾人に喜んでもらえるような方法でやったのが後藤新平です。
もう一つは彼が就任する前には、
日本の役人は法律関係の人がたくさんいたわけですが、
日本の植民地は日本の延長ですから、
日本の法でもって台湾を治めようとしていました。
彼はこれが間違いで、
台湾には台湾の法があるべきとして、
就任していきなリ一千余人を
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くびにしました。
その代わり、後藤新平は産業振興をうたいました。
台湾を豊かにする事に重点を置きました。
そして衛生関係、教育も重視しました。
当然産業振興のためには、
インフラの整備が必要です。
後藤新平さんは人材を集めて
インフラ建設に投入したわけです。
ですから、
そういう計画のなかで日月潭の発電だとか、
烏山頭ダム、石門ダムだとか、
特にダムが出来た事によって、
農業が発展したわけです。
それで、かなり台湾人が豊かになったわけです。
私の知っている限り、
昭和の始め頃には、台南、
いわゆる嘉南平野の中流階級の層は
かなり厚かったようです。
これはやはり不毛の地からいきなり年に二作の米が
とれる農地に変わったおかげで、
農民が非常に豊かになったからです。
もう一つは台湾の産業、特に製糖、樟脳に対して、
後藤新平は特に力を入れていました。
彼が招聘した人材のなかには、
新渡戸稲造という人物がいまして、
彼がハワイから製糖技術を導入し、
さとうきびの品種を台湾の気候に合うように改良しました。
かくして、
製糖工業は台湾で最大の工業になったわけです。
確かにそういう事をやっている間、
いくらか台湾の人が政府に土地を取られ、
色々と不満もあったようですが、
だいたい戦争に負けた者としては
どこの国でもある事です。
蒋介石が来てまず肥料を独占で輸入して、
それから農民には国際価格の
倍から三倍の値段で売りつけました。
さらに、国際相場の半値で米を買い取りました。
そういう事に比べると、
日本時代の政策は立派なものです。
ですから、今でも嘉南平野を回ると、
昔の立派な家がかなり残っています。
この点から見ても、
植民地時代の台湾人には
かなり豊かな層があったわけです。
国民党は一にも日本人の搾取、
二にも日本人の搾取と言っていますが、
植民地になった後、
日本政府は大陸に帰りたい者は帰っていいと、
残りたい者は残って下さいという事で、
二年間の余裕を与えました。
大半の人は残りました。
問題はその後、十年経過した後、
今度は大陸から大量の人が台湾に来ました。
それが、
今の客家人だとか、
潮州人だとかですが、
台湾に来た理由は簡単です。
台湾に来ると、仕事はあるし、収入もいい、
治安がいい、
天国だということで、
大量にきたわけです。
ですから、
日本の植民地時代に
日本人がどうやったかという事は、
中国人だという事を捨てて、
台湾人になる人が大量に増えたという事で
成果が証明されていると思います。
それと同じように、
今もだいたい政府は日本の大陸への侵略、
特に満州国を作った事に対して批判しています。
実は私も何人かいわゆる満州人に会った事がありま
p9〔すが、彼らの話を聞くと非常に面白いのです。〕
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すが、彼らの話を聞くと非常に面白いのです。
満州では、日本人が行く前に、
軍閥張作霖がそこを治めていました。
軍閥の税というのが、
日本が満州国を作ったその時代に比べると、
ずーっと重かったわけです。
当然ながら、守る法もなかったので、
満州国になった後、非常にいい状態になりました。
華北の人々が満州国に大量に行ったわけです。
それを政府が止めた事実があります。
日本人が行っていいことをやったので、
華北の人民が大量に満州国に行ったという
事実があるわけです。
だから、
いいことをやったかどうかは
こういう所を見ても分かります。
庶民には、誰がやってもいいですが、
仕事があって、生活が安定して、
守る法があればいいわけです。
植民地時代にやった事に対して、
今のほとんどの日本人は贖罪意識を持っています。
自分の先輩は大陸、台湾で悪い事をやったので、
中国大陸が何かを言うと、
ごもっともだと言うことしか知りませんが、
日本の方は一番大事な事を忘れています。
台湾は一番親日的で、
我々もかつては日本人でした。
現在日本は台湾をすっかり忘れてしまって、
中国大陸一辺倒になっています。
我々は当時大東亜共栄圏という理想に燃えていました。
私はインドネシアで工場を持っていますが、
インドネシアが独立できたのは
日本人のおかげだと言っている人がいます。
今のスハルトにしても、
やはり当時日本人が訓練したゲリラでした。
ですから、
そういう事実が今隠されて、
悪い事をやったと、
そういう贖罪意識が大きく影響しています。
そのために、
例えば過去のアジアオリンピック大会で
中国大陸が
台湾が出るならこちらは出ないと主張したら、
日本が青くなってしまって、
中国一辺倒になりました。
私は今、李総統の国策顧間をやっていますが、
実は李総統と親しくなったきっかけは
この本「台湾の歴史」です。
この本を李総統がたまたまご覧になって、
そしてある会合で私に、
ご自分は百パーセント同感だとおっしゃいました。
日本人は台湾で偉大な事をやったとおっしゃいました。
それを聞いて、
私も冗談半分で李総統に、
国民党の主席ですので、
そんな事を言ったらたたかれますよと言いました。
そうしたら李総統はにやにや笑っていました。
そういう事で、
私は李総統とすっかり親しくなって、
その上、李総統も絵とか音楽がお好きなため、
現在はどちらかと言うと音楽の仲間として、
そして話の相手として、
月に一回くらい顔を合わせています。
現在の日本というのは、
我々から見ますと終戦からはアメリカの顔色を伺ったり、
中国大陸の顔色を伺ったりして、
自己主張がないように見えます。
台湾問題は日本にとって対岸の火事ではありません。
台湾が中国大陸に取られたら、日本にとって
p10〔もうるさい問題です。〕
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《植民地時代と今日の台湾の比較》3/4
奇美実業 許文龍 董事長:1998年(平成10年)3月6日
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