《植民地時代と今日の台湾の比較》3/4
奇美実業 許文龍 董事長:1998年(平成10年)3月6日
p10-許文龍-講演
p10
もうるさい問題です。
そういう意味で、
やはり日本の方々には台湾問題を
もつと真剣に考えてもらいたいのです。
やはりかつての後藤新平のような方が作った道を
継承して歩くわけですから、
当時日本の方がどういう事をされたかを
勉強し直す必要があります。
戦前の外交に比べると、
今の日本の外交は中国大陸に何かを言われると、
すぐ引っ込んでしまいます。
例えば報道問題で、
何か変な事を書くと中国大陸に入国できないので、
引っ込んでしまいます。
これは明治時代の人と発想が違うわけです。
仮に私がそういう立場にあったら、
チャンスだと思います。
じゃんじゃん書き立てて、
中国大陸がどうぞ書かないで下さい、
現地を見に来て下さいと
頭を下げてくるまで書き続けます。
それなのに、
日本人の反応は中国大陸に言われて、
入国できないと困るから、
書くべき事を書くのをやめるわけです。
これはいわゆる
戦後の日教組の影響かどうかは知りませんが、
そこでやはりみなさんに
もう一度植民地時代の台湾はどうであったか、
当時日本人がどういう事をやったかを勉強し直し、
戦前の事を頭から間違いだと思わないでほしいのです。
そして、
将来進むべき道をそこから見出してほしいのです。
今日はこういう植民地時代の話もいいんですけれども、
どうやらうちの会社に興味を持っている方も
かなりいらっしゃるようですので、
うちの会社を簡単に紹介します。
私は終戦後、まず2、3人の従業員を使って
家内工業から始めました。
そのうちに、プラスチックの成型材料を買ってきて、
インジェクション、モルディングをやって、
それからアクリルのキャスティング、
PS、ABSの順序で発展させてきました。
会社としてはそれほど大きいわけではありませんが、
最近うちの企業文化に対して、
色々な方が興味を持ち始めました。
それはどういう事かと言いますと、
第一に私は一週間に二日しか出勤せず、
毎日釣りをやっていますが、
釣りをやっていながら、
会社も順調に発展しているという所が
みなさんの興味を感じている所なので、
これから、
私は自分の経営経験を話したいと思います。
うちは家内工業から始まり、
35年前に今の奇美実業を設立しました。
実業というのは虚業に対する実業であり、
従業員には汗を流して金をもうけようと言って、
土地、株の操作と全く無関係という事を明確にするために、
実業としました。
それから、
まず最初に親戚から資金を集めて、
私は31才で会長に就任しました。
その時の資本金はわずか200万台湾元でしたが、
現在ではNT$120億元に成長し、
年商は現時点でNT$350~400億元です。
その間どういう事をやったかと言いますと、
p11〔最初のうちは家族企業なので、〕
※NT$:ニュー台湾ドル・新台湾ドル
p11-許文龍-講演
p11
最初のうちは家族企業なので、
重要幹部はほとんど親戚でした。
それから6、7年経過した後、
経営と所有の分離をやって、
能力主義に徹し、
社長及び重要幹部を外部から雇いました。
その次に、
今から20年前から従業員に株を持たせました。
どういう方法でやったかというと、
会社の株をやるのはいいんですけれども、
金で買う場合、
金のある人とない人の差が出てくるわけです。
従って、
その時私は無利息で従業員に金を貸して、
株を持たせました。
それで、現在従業員が所有している株は
NTS18億元に達しており、
全体のざっと16、7%を占めています。
できれば、
将来30%まで増やしたいのです。
そうすれば、
社員全体の利害関係が一致します。
これも後藤新平の考え方と同じ様なものです。
彼はやはり相手のほしいものをよく考えましたが、
従業員というのはどこでも同じようにお金がほしい、
遊ぶ時間がほしい、
仕事をせずにたくさんお金をもらいたい、
仕事をしても仕事をしやすいような
職場がほしいと思うものです。
私としては働かせるために
どうすればいいか考えたわけです。
儲けの一部を分け前として従業員にあげる事は
たくさんの人が考えましたが、
具体的に実施して、
まとまった金額になっているのは
うちだけだと思います。
18億ですから、
うちの株が上場すれば、
5倍とは言わなくても
かなり価値が増えると思います。
今まで、年に10~20%の配当をやってきたので、
従業員は給料以外にかなりの配当をもらっているわけです。
うちは350億の売り上げと言っても、
従業員は1,300~1,400人くらいで、
生産性が非常に高いのです。
従って、私の理想は、定年退職した時点において、
従業員一人の配当が給料くらいになる事です。
そうすると、
従業員の後顧の憂いが無くなります。
その点で言うと、
私の思うには
今の日本の会社にはかなり問題があります。
定年退職は60才として、
60才というのは本当はまだ若いのです
私は71才ですが、
まだぴんぴんしています。
社員は50才当たりから、
これから会社人生以外の何かを
やらなければいけないと思ってしまい、
会社に対する忠誠度が半減します。
最近日本の会社は景気が悪いからと言って、
どんどん従業員を減らしていますが、
そういう事を考えると、
これは確かに合理化にはなりますが、
かなり問題があります。
この問題を防ぐために、
私は25年前から従業員に配当を分け始めました。
そのおかげで、うちの従業員の転職率は低く、
定着率はおそらく台湾で一番いいと思います。
次に、
従業員の給料をよくする事です。
給料をよくするには、
従業員の生産性を良くしなければならないのです。
適当な目標、刺激を与えて、給料をあげていきま
p12〔す。〕
p12-許文龍-講演
p12
す。
もう一つですが、
私自身は週に4、5日間海で釣りをやっています。
従業員もさぞ遊びたいと思いますので、
遊ぶ時間を与えましょうという事で、
うちは10年前から現場、事務所共、
一週間の勤務時間は40時間という制度を導入しました。
もう一つは残業禁止。
東京に行くと、
夜になっても電気がついている所が多いです。
そういう所で働いている人は
恐らく家に帰ったらもう遅くなっていますし、
自分の時間がないと思います。
うちはなるべく残業せず、
一週間の勤務時間を40時間以内に抑えるという事で
実施し始めたのが10年前です。
最近になって、
奇美実業がちょっと有名になりましたが、
それは今年から政府が週休二日制を実施し始めて、
南部の奇美実業は10年前から
週休二日制を実施していることが分かつたからです。
最近、
李総統は報道関係の人約50人をつれて、
うちの会社に来たわけです。
私が今言ったような事を言いましたら、
みなびっくりしていました。
ですから、
そういう状態の下で仕事をしてもらう、
これが奇美が台湾で有名になった原因の一つだと思います。
やはり、
如何にしてモラルを向上させるかについて
考えなければなりません。
いくら働けと言っても、
働くはずもありませんし、
やはり忠誠度というのは保証されて
初めて出るものだと思います。
そういう所は心なしか
後藤新平さんのやり方に
一脈通じる所があると思います。
その次に私が考えた事は、
私の育った環境が決して裕福ではなく、
父は10人の子どもを生んで、
しかも30代で失業して、
従って私の子ども時代は幸せではありませんでした。
ですから、物心がついた頃から、
何とか金儲けをして生活を楽にしたいという
考え方が非常に強かったようです。
ただ40代から、
儲けたお金をどうするかという事が
私にとってむしろさらに重要な事になってきたわけです。
財産で言うと、
私の持っているお金は決して多くありませんが、
お金を如何に使うかという事は
私にとって重要なテーマになってきたわけです。
ですから、私は50の時に遺書を書いて、
一週間だいたい1日か2日しか
出勤しないことを発表しました。
実際に、私は40代からすでに仕事を総経理に任せて、
好きな事をやっています。
好きな事というのは、まず第一に釣りがあげられます。
私は釣りが好きで、
海釣りから渓流釣りまで色々とやっています。
その次は音楽です。
私は音楽が好きで、
自分で下手なバイオリンを弾いたり、
また45才からはバイオリンを勉強し直しました。
絵を書いたりするのも好きです。
下手ですけれども、
がっちリ、デッサンの基礎は積んでいます。
また、私は本を読むのも好きです。
そんなわけで私は50
p13〔才からほとんどの時間を〕
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《植民地時代と今日の台湾の比較》4/4
奇美実業 許文龍 董事長:1998年(平成10年)3月6日
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