◆小野梓

《小野梓》「家」廃止や家長(戸主)の廃止論者【近代日本の家庭 (市民新書)】昭和41年

【近代日本の家庭 (市民新書)】昭和41年(1966)
著者    外崎光広 著
出版者   高知市立市民図書館
出版年月日 1966
 自由民権期の家庭改革論
次に、明確な「家」の廃止論は、
明治一四年(1881)にはじめて登場する。
雑誌「法律志叢」がこの年に連載した
「相続論」のなかの
「社会ノ組織ハ一箇人ヨリ成立ツ者ナルヲ以テ
 一箇人ノ性質完全ナルトキハ
 一社会ノ体面モ自ラ善良ナルヘシ
 之ニ反シテ一家ヲ本トスルモノハ
 其外形ハ美ナリト雖トモ
 其内部或ハ醜穢不規見ルニ忍ヒサルモノアリ」
(一一月二七日発行第八一号)
との一節こそ、
「家」廃止の先駆的主張であるが、
「家」の廃止を説いたこの筆者が
家長(戸主)の廃止論者でもあった。

なお、「家」廃止や家長(戸主)の廃止論者として
小野梓をあげなければならない。
明治四年(※明治5年)から四年間
米英に留学し、
当時のもっともすぐれた
法学者の一人であった小野梓は、
「民法の骨」のなかで、
「一国の基礎を一団の家族に取る非」
を明らかにした上で、
p15【近代日本の家庭 (市民新書)】1966
〔画像〕p15【近代日本の家庭 (市民新書)】1966
https://dl.ndl.go.jp/pid/3029699/1/15
戸主の制のもとでは、
家族は既に成年に達して
自治能力を持っていても、
なお戸主の
「統御を免るゝを得ざれば、
 内に自から不満の心を抱き、
 家庭の交通依て以て和同せざるべく、
 又之にして自主たるを得ず、
 随て其労力の結果を自得するを得ざれば、
 其所有の権利自から鞏固ならず、
 遂に其力を生業に用ゐるの意を薄からしむ」
るものであり、
したがって、
「戸主の制は人間交際の宜しきを失し、
 生民経済の術に背く」
ということで、
戸主制に廃止を力説した。

小野は明治一七年(1884)に単行本として出版した、
「此書は明治八年(1875)其筆を始むと雖も、
 中ごろ国憲汎論の著作に際し之を止め、
 十五年(1882)汎論の書成るや又之を続ぎ、
 近日漸く其の稿を落成す」
といっているから、
彼の「家」廃止論や家長廃止論は、
さきの「法律志叢」の「相続論」に
先立つ労作だったかとも考えられる。
https://dl.ndl.go.jp/pid/3029699/1/16
外崎光広
1920年に生れる
1951年同志社大学法学部法律学科卒業
1953年同志社大学大学院にて法学修士
近代日本の家庭 市民新書19
昭和41年8月25日印刷
昭和41年9月1日発行 定価230円
著 者 外崎光広
発行者 渡辺 進
印刷者 有限会社 土電印刷
発行所 高知市立市民図書舘
    高知市帯屋町
    振替徳島15276
    電話②2501
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《小野梓》自由民権運動の指導的法学者の家族制度改革論【家族制度からの解放】昭和31年

【家族制度からの解放 : 
 家庭の幸福と民主主義を守るために (市民新書)】
著者    外崎光広 著
出版者   高知市立市民図書館
出版年月日 1956(昭和31)
 二 自由民権論家の家族制度改革論
人間の自由平等を高く掲げ
民主主義的国家社会の建設を絶叫して、
明治前半期の日本を震撼せしめた自由民権運動が、
家族制度と真向から衝突したのは当然である。

自由民権運動の指導的法学者小野梓
(一八五二年土佐国幡多郡宿毛村に生まれ
 一八八六年東京に死す)は、
明治一七年「民法の骨」を書いて
家族制度を厳しく批判した。
その所論をみよう。

家族制度の支配的な社会では、
個人が直接国家を構成する単位になるのではなく、
家族団体が国家を構成する基礎であり、
個人は家族団体の構成員として
家長を通じてのみ国家組織に参加するものである。

小野梓は家族制度をこのような
公法上の制度とすることに真向から反対して、
個人を以て国家の構成単位とする、
個人制度の採用を力説する。

公法上の家族制度の否定は当然
戸主制度の廃止という
第二の主張となる。

すなわち、
一人の戸主が成年の家族を支配、
統率することは、
その家族の自治の能力を抑制し、
その人の幸福を左右することになる。

既に成年に達し、
自治の能力を有しながらも、
なお戸主の統御を受けるならば、
自から不満の心を抱き、
家庭の親和が破壊されるばかりでなく、
独立できぬために
その労力の結果を自から所有することができず、
したがって、
その力を生業に用いる熱を欠くに至る。

かく、戸主制は、人間交際の宜しきを失し、
生民経済の術に背くものだと結論し、
わが国では戸主制度は上代に始まり、
以来、今日まで及んでいるのだが、
維新後既にその基礎は半ば崩壊し、
わずかにその余影を止めるに過ぎないから、
今後ますますこの傾向を拡げ、
完全に払拭すべきだという。

第三は、
父母が子を恃むの悪弊と題する家族制度的
親子関係の批判である。
古来、東洋では親が子を養育するのは、
子女を成長せしめ、
自分の老後の用に充てる為だと考えているようである。

しかし、親がその子を養育するのは、
父母の尽すべき当然の義務である。

ところが東洋では子の養育は
子に貸与したものように考えて、
子が生長するや自分はまだ若いのに
子の扶養をうけ遊惰安逸に流れ、
無為に徒食する弊風がある。

そのために子は経済的負担大きく、
遠大の事業に尽し、
大利を永久に謀ることができない。

これは、社会の発展にとって
まことに大きな弊害だ、
というのである。

小野の右の批判は、
家族制度の精神的支柱である
孝道に対する批判であると共に、
家族制度に随伴する隠居制度に対する批判であり、
家族制度的親権制度に対する批判でもある。

第四は、
一夫一婦制をとなえ、
妾制度の廃止を叫んでいる。

第五は、
相続制度について諸子分割相続制度を提唱している。
これは戸主制度廃止の主張と共に、
家族制度の最も基本的な支柱に対する一撃である。

第六は養子廃止論である。
養子制度は家系の継続をはかることを目的とする
家族制度の随伴的制度である。

家族制度の廃止を叫ぶ小野が養子制度を
p27【家族制度からの解放】昭和31年
〔画像〕p27【家族制度からの解放】昭和31年
https://dl.ndl.go.jp/pid/3023313/1/27
とりあげたことは当然である。

彼は束縛圧制、
人の権利を妨害するもの養子より甚しきはなし、
といって、
そのすみやかなる廃止を説く。

第七は、
男女を区別して位置を与奪するの非、
といって両性の平等の実現を説いた。

ところが、
男女の平等の実現については
小野は意外にもきわめて
微温的であり不徹底なものであった。

彼は、
男女の権利義務を差別することについては、
きびしい世論の非難があるけれども、
国事上差別を設けることは、
今日の事情からまことに止むを得ないものがあるし、
また、
女子の貞心を全うせしめるためにも
差別を設けざるを得ないようである。

しかし、
民事上の権利義務に男女の優劣をおくことは
まことに失当である、と説く。

公法上では両性の不平等もやむを得ないが
民事上では平等でなければならない、
というのが彼の主張である。

ところが、
民事上では男女は平等でなければならないといっても、
それは未婚の女子についてのことであって、
夫婦間の権利義務については
再び夫妻の不平等をやむを得ないものとする。

彼が私淑するベンタムの説くところを援用して、
夫婦を平等にすれば、
琴瑟の和せざる、
鐘鼓の調わざる、
世上終に夫妻の交際を空うし、
人間社会是より絶ゆるに至らんとまで言って、
彼の主張は夫婦婦随の域に低迷していた。

小野梓は、
両性の平等については
このように徹底を欠くけれども、
維新後いまだ民法典をもたなかった当時、
以上みたような
すぐれた家族制度改革論を発表していたことは
注目に値することである。

次に、自由民権運動の立役者であり、
最高の理論家であった植木枝盛
(一八五七年土佐国土佐郡井口村中須賀に生まれ
 一八九二年東京に死す)
の家族制度廃止論にすすもう。

植木の家族制度についての主張は、
小野の「民法の骨」の刊行に一、二年おくれ、
明治二〇年前後の土陽新聞に矢つぎばやに発表された。
p28【家族制度からの解放】昭和31年
〔画像〕p28【家族制度からの解放】昭和31年
https://dl.ndl.go.jp/pid/3023313/1/28
外崎光廣
1920年生まれる
1951年同志社大学法学部法律学科卒業
1953年同志社大学大学院にて法学修士
家族制度からの解放 市民新書6
1956年10月25日印刷
1956年11月1日発行 ¥120
著 者 外崎光廣
発行者 渡辺 進
印刷者 谷内印刷工業株式会社
発行所 高知市立市民図書館
    高知市帶屋町
    振替徳島15276
    電話2501
https://dl.ndl.go.jp/pid/3023313/1/137
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《立田 實》父 立田義明・母 保(やす)小野梓の妹【人事興信録 第12版(昭和14年) 下】

【人事興信録 第12版(昭和14年) 下】
著者    人事興信所 編
出版者   人事興信所
出版年月日 昭和14
《立田 實》
 万平ホテル(株)取締役、
 日本火災保險(株)大阪支店長
 高知縣在籍
 母   保 文久元年七月生、
       ※1861年8月
       高知、士族、
       小野梓 妹
 妻 とよ子 明治三一年一月生、千葉、
       大塚淸左衞門三女
 女 瑛 子 大正一一年一二月生、
高知縣 立田義明の長男にして
明治二十三年三月出生
明治四十四年家督を相續す
夙に
日本火災保險會社に入り
横濱支店長
東京營業課長を經て
現時 大阪支店長たり
万平ホテル取締役を兼ぬ
趣味 書道・音樂・ゴルフ
宗教 佛敎
家族 尚ほ
二女 澄 子(大正一五年一〇月生)
三女 三登吏(昭和四年九月生)あり
(兵庫縣武庫郡精道村打出大太)
(電話 芦屋二六六五)
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【人事興信録 第14版 下】昭和18年(1943)
著者    人事興信所 編
出版者   人事興信所
出版年月日 1943
《立田 實》
 万平ホテル(株)取締役、
 日本火災保險(株)副支配人、
 高知士族
 母   保 文久元年七月生、高知、士族、
       小野梓 妹
 妻 登代子 明治三一年一月生、千葉、
       大塚淸左衞門三女
 女 瑛 子 大正一一年一二月生、
       横濱山手女學院高等部在
 女 澄 子 大正一五年一〇月生、
       横濱山手女學院在
高知縣 立田義明の長男にして
明治二十三年三月出生
明治四十四年家督を相續す
日本火災保險に入り
横濱大阪各支店長
東京營業課長火災部長を經て
現職に就く
趣味 書道・音樂
宗教 佛敎
家族 尚ほ
三女 三登吏(昭和四年九月生)
      (横濱山手女學院在)あり
(横濱市中區本牧荒井一八)
(電話 本局二三〇五)
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年04月11日13:52
〔小野潜蔵〕小野梓《留客斎日記》:《小野潜蔵》《寺子屋・留客斎》
[我が家の航跡:立田敬二回想録]
平成二十四年(二〇一二)年四月五日発行
著者・発行者 立田敬二
       〒788-0013
       宿毛市片島4-60
制 作    高知新聞企業出版調査部
装 丁    森岡さわ
印刷所    弘文印刷株式会社
 立田敬二様作成の系図より
〔画像〕立田敬二様作成の系図より
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白皙痩身の小野梓:国憲汎論、日本財政論、その講義は火をはくような熱弁で専制政府を批判し【大山郁夫伝 本編】1956

【大山郁夫伝 本編】1956
著者    大山郁夫記念事業会 編
出版者   中央公論社
出版年月日 1956
 p4【大山郁夫伝 本編】1956
p4【大山郁夫伝 本編】1956
https://dl.ndl.go.jp/pid/2974796/1/4
  二 早稲田大学時代  p23-45/216
 1 早稲田建学の理想と政治経済科の性格 p23-26/216
開校式の日、※明治15年(1882)10月21日
大隈にかわって式場にたった小野梓は、
次のように建学の抱負を述べた。
「一国の独立は国民の独立に基き、
 国民の独立はその精神の独立に根ざす。
 そして国民精神の独立は、
 実に学問の独立に由るのであるから、
 その国を独立せしめんと欲するなら、
 必ずまずその民を独立せしめねばならぬ。
 その民を独立せしめんと欲すれば、
 まずその精神を独立せしめざるをえない。
 その精神を独立せしめんとすれば、
 その学問を独立せしめねばならぬ。」
白皙痩身の小野梓は、満身の熱情を傾けて、
このように演説した。

当時は不平等条約の改正と自由民権運動が、
全国民的運動として日程にのぼりつつあった。
不平等条約の改正は外国の隷属的地位から
日本を解き放つことであり、
自由民権運動は藩閥の専制支配から
国民を解き放つことであった。
小野が建学の理想として示したものも、
この二つの解放、
二つの独立を達成するために、
学問の独立を早稲田の学園に実現することであった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2974796/1/23
かくて「学の独立」は、
早稲田建学の最も重要な主題となったのである。

小野は国憲汎論、日本財政論などを講じたが、
その講義は火をはくような熱弁で、
専制政府を批判し、
国民の自覚をうながす高い識見につらぬかれていた。
学生に対する感化力は、
まことに大きかったといわれている。

小野は明治十九年、肺患でたおれたが、
彼の理想は早稲田に生きつづけた。
藩閥政府は陰に陽に早稲田を迫害したが、
官憲の圧迫はますます早稲田を鍛えあげたのである。

大山は早稲田時代を回顧して、
「私は小野梓、浮田和民の両先生から、
 大きな感化をうけた」
と語ったというが、
大山が入学したときは、
むろん小野は現世の人ではなかった。
大山が感化を受けたのは、
小野がうえつけた早稲田魂、
ことに大学における学問の独立を
重しとする精神だったのであろう。

早稲田大学教授時代の大山は、
「学問の独立、研究の自由」
のために何人よりも勇敢にたたかった。
そういう意味で、
大山が小野梓の発展的継承者であったことは、
何人も異論のないところであろう。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2974796/1/24
  2 学生としての大山郁夫
https://dl.ndl.go.jp/pid/2974796/1/25
早稲田が青年大山にあたえたものはなにか。
「小野梓と浮田和民に感化された」
と大山が述懐したことは前に述べた。
小野の感化はいわゆる
早稲田精神であったと思われるが、
大山が浮田から学んだものは、
進歩的自由主義者としての節操と、
キリスト者としての熱いヒューマニズム
だったのではあるまいか。
大山は『浮田和民先生追懐録』
に次のような感想を寄せている。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2974796/1/26
  2 政治学的思惟の形成
大山が学んだ早稲田大学では、
前身東京専門学校の開学当初から、
小野梓の学風を伝統とする
実証主義的政治学が継承されていた。
小野梓は、
大隈重信を助けて東京専門学校の創立に参画し、
『国憲汎論』(一八八二年)を公刊して、
啓蒙期の政治思想に大きな影響を与えた。
その思想はモンテスキュー、ベンタム、
オースチン(J.Austin,1790-1859)
などの影響をうけ、
とりわけベンタムの功利主義の思想を
取りいれたものであるが、
しかし彼の本領は、
日本の諸事情の歴史的特殊性を明らかにし、
その理法を知り、
これに適応する政治形態を求めんとするにあった、
したがって、彼の態度は、
歴史的現実性のなかにその実体を求めようとする
実証主義的傾向を多分に有していた。
彼がこのような立場を
啓蒙期の日本において取ったことは、
たしかに異とすべきである。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2974796/1/72
監修 北沢新次郎
   末川  博
   平野義太郎
昭和三十一年十一月二十五日印刷
昭和三十一年十一月 三十日発行
定価 六〇〇円
発行者 栗本和夫
    東京都中央区京橋二ノ一
印刷者 曾根盛事
    東京都品川區大井寺下町
発行所 中央公論社
    東京都中央区京橋二ノ一
    電話(56)代表五九二一(一〇)
(扶桑印刷)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2974796/1/211
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2024年04月21日04:15
大山郁夫先生の京都における主治医:
安井信雄(京都・医博・安井病院長)
【大山郁夫伝 別冊付録】1956
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2018年05月06日04:28
[東京すくも人]第2号:
《小野梓先生を知るために》兵頭武郎
 結 び
大正から昭和にかけて、
大山郁夫という梓の孫弟子に当る教授が早稲田にいた。
彼は根っからのリベラリストで学生にも相当人気があった。
私も戦後大隈講堂で先生の講演を聞いたことがあるが
超満員で押しつぶされそうになったことを覚えている。
 ―略―
小野梓の『国憲汎論』が日本の新憲法に脈々と入り
生かされていることを知っている人は少ない。
この偉大な先駆者、
小野梓を早稲田当局も
ますます大切に扱っているのであるが、
われわれ、宿毛人も小野梓をもっとよく知り、
その偉業を顕章する必要があるのではないだろうか。
 (日本文芸社 社長)
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《大關增勤氏に讓渡》西周の邸宅(西小川町一丁目)明治14年2月【雪廼舎主人相沢朮・同扇子伝】昭和15年

【雪廼舎主人相沢朮・同扇子伝】昭和15年
著者    相沢英次郎 編
出版者   相沢英次郎
出版年月日 昭和15
(明治四年に初めて寫したる寫眞)
 p8【雪廼舎主人相沢朮・同扇子伝】昭和15年
〔画像〕p8【雪廼舎主人相沢朮・同扇子伝】昭和15年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1105480/1/8

明治十四辛巳年 朮五十七歳
二月二十三日 西周(にし あまね)
西小川町一丁目の邸宅を
大關增勤氏に讓渡したので、
豫て求め置いた
麴町區下二番町六十三番地の邸宅に引移つた。
 p54【雪廼舎主人相沢朮・同扇子伝】昭和15年
〔画像〕p54【雪廼舎主人相沢朮・同扇子伝】昭和15年
https://dl.ndl.go.jp/pid/1105480/1/54
昭和十五年九月二十八日印刷
昭和十五年十月 一 日發行 非賣品
編纂兼 相澤英次郎
發行者 横濱市中区西戸部町二丁目二二一
印刷者 福神 和三
    東京市京橋區銀座西一丁目七番地
印刷所 福神製本印刷所
    東京市京橋區銀座西一丁目七番地
    電話京橋六六八五・六七一〇
https://dl.ndl.go.jp/pid/1105480/1/88
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《神田五軒町》松平忠禮、酒井忠美、建部秀隆、大關增勤、黑田直養ノ五邸【東京名所図会 [第2] (神田区之部)】1968

【東京名所図会 [第2] (神田区之部)】1968
出版者   睦書房
出版年月日 1968
 ◎神田五軒町
  〇總 説
 〇位 置
舊お成街道の西側にして
北は下谷區西黑門町に接し。
東は龜住町、元佐久間町、榮町に對し。
南は末廣町に連り
西は本郷區湯島三組町を隣とす。
而して一番地より二十番地に岐つ。
 〇町名の起源
神田五軒町は
もと
建部内匠頭、酒井安藝守、
黑田伊勢守、大關信濃守、松平伊賀守
以上五家の邸地たりしを以て。
明治の初 此名を附せり。
p123【東京名所図会 [第2] (神田区之部)】1968
〔画像〕p123【東京名所図会 [第2] (神田区之部)】1968
https://dl.ndl.go.jp/pid/9640999/1/123
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【東京都市計画土地区劃整理施行区域内町名沿革調 巻1】
著者    東京市区劃整理局 編
出版者   東京市区劃整理局
出版年月日 [昭和9]
神田區五軒町
舊時 松平忠禮、酒井忠美、建部秀隆、
大關增勤、黑田直養ノ五邸ナリ
明治五年
右ヲ合シテ新ニ町名ヲ加フ
藩邸五軒ニ取ルト云フ
https://dl.ndl.go.jp/pid/1212869/1/44
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《下谷原宿町の項で三之輪町》明治五年華族大関氏邸其他土地ヲ此町ニ合併セリ【三の輪町史】1968

【三の輪町史】1968
著者    三の輪町史編さん会 編
出版者   三の輪町史編さん会
出版年月日 1968
明治三年から明治五年にかけて、
東京府志料が
下谷原宿町の項で
 三之輪町トイヒシヲ
 明治三年八月斯ク改称セリ
 明治五年華族大関氏邸其他土地ヲ此町ニ合併セリ
と述べているような変化を遂げた。
原宿というのは、
本項冒頭引用の江戸往古図説及び
地名由来の項を参照していただければ分るが、
三の輪の古い別称である。
https://dl.ndl.go.jp/pid/9640092/1/22
「大関氏邸其他土地」というのは、
嘉永六年版の切絵図及び  ※下記記載
安政三年(一八五六)版の
根岸谷中日暮豊島辺図に
「大関信濃守、宗対馬守、池田播磨守、
 石川日向守、加藤大蔵少輔」
と記されている地域であったろう。
この地は現在荒川区に編入されている。

https://dl.ndl.go.jp/pid/9640092/1/23
 大関横丁
大関横丁というよりも、
三河島火葬場通りといった方が分りやすい。
現在この大関横丁は明治通りになっている。
明治通りは別名環状線という。
https://dl.ndl.go.jp/pid/9640092/1/87
昭和四十三年九月二十日印刷
昭和四十三年十月 一日発行
発行所 東京都台東区根岸五丁目一六番
    三の輪町史編さん会
    電話(八七三)一二五〇番
発行人 編さん会代表 渡辺兼守
印 刷 小竹印刷工場 小竹栄玉
https://dl.ndl.go.jp/pid/9640092/1/112
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「大関信濃守、宗対馬守、池田播磨守、
 石川日向守、加藤大蔵少輔」
【下谷・浅草町名由来考 (台東叢書 ; 第3集)】1967
出版者   東京都台東区
出版年月日 1967
 p70【下谷・浅草町名由来考 (台東叢書 ; 第3集)】1967
〔画像〕p70【下谷・浅草町名由来考 (台東叢書 ; 第3集)】1967
https://dl.ndl.go.jp/pid/2984663/1/70
台東叢書 第三集 下谷浅草町名由来考
昭和42年3月25日 印刷
昭和42年3月31日 発行
編集兼 東京都台東区
発行人 東京都台東区東上野四ノ五ノ六
印刷所 有限会社 小竹印刷工場
    東京都台東区東上野五ノ七ノ二
印刷者 小竹栄玉
https://dl.ndl.go.jp/pid/2984663/1/200
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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大関屋敷跡(第六瑞光小学校)(三ノ輪屠殺場)【荒川区史跡散歩 (東京史跡ガイド ; 18)】1978.11

【荒川区史跡散歩 (東京史跡ガイド ; 18)】1978.11
著者    高田隆成 著
出版者   学生社
出版年月日 1978.11
 p34【荒川区史跡散歩 (18)】1978.11
〔画像〕p34【荒川区史跡散歩 (18)】1978.11
https://dl.ndl.go.jp/pid/9641549/1/34
大関屋敷跡(第六瑞光小学校)
大関能登守は下野国黒羽城主で一万八千石、
拝領した敷地約五六〇〇坪、
抱屋敷約二千坪であった。
大関屋敷は日光街道と明治通りと交差
https://dl.ndl.go.jp/pid/9641549/1/44
する信号に「大関横丁」の名を今に残している。
明治通りとして拡幅される前の大関横丁は
その幅二間(約四米)で、
曲りくねりながら火葬場へ通ずる焼場道で、
その前方には清水の森や地蔵堀の地蔵が見えたという。
また、第六瑞光小学校の南側
中林家(南千住一ノ8ノ7)は
もと大関屋敷の留守番百姓をつとめた家で、
その家屋や蔵は屋敷中に建てられたものが残っている。
第六瑞光小学校西北角に
「大関横丁の碑」が建てられている。

大関屋敷跡(三ノ輪屠殺場)
大関屋敷は今でいう南千住一丁目36番地であるが、
明治四年
三ノ輪屠場開設以来、
昭和一二年芝浦屠場の開設されるまでは
屠殺場であった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/9641549/1/45
780円
東京史跡ガイド⑱ 荒川区史跡散歩
昭和53年11月1日 初版印刷
昭和53年11月5日 初版発行
著 者 高田隆成
    東京都荒川区東尾久3-2-4
発行者 鶴岡@巳 ※@:阝+正
    東京都千代田区九段南2-2-4
発行所 株式会社 學生社
    東京都千代田区九段南2-2-4
    電話(263)2611(代表)
    振替・東京1-18870番
    編集担当 土屋晃三
https://dl.ndl.go.jp/pid/9641549/1/87
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【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《大関増勤》住所変遷:明治6年~明治17年【華族類別名鑑 再版】明治17年(1884)

【官許貴家一覧 武家華族之部】明治6年(1873)
出版者   雁金屋清吉
出版年月日 1873
従五位 大関増勤
下ヤ 原宿丁
※下谷原宿町(旧:三之輪町)

【貴家一覧 上(元武家華族之部)】明治6年(1873)
出版者   雁金屋清吉
出版年月日 明6.11
従五位 大関増勤
下ヤ 原宿丁
※下谷原宿町(旧:三之輪町)

【華族名鑑】明治8年(1875)
著者    西村隼太郎 編
出版者   西村組出版局
出版年月日 明8.3
従五位 大関増勤
第十區一小區
下谷原宿丁六十八番地
※下谷原宿町(旧:三之輪町)

【華族銘鑑:鼇頭 増補改正】明治9年(1876)
出版者   雁金屋清吉
出版年月日 1876
従五位 大関増勤
下谷 原宿町六十八番地
※下谷原宿町(旧:三之輪町)

【華族銘鑑 増補改正】明治9年(1876)
著者    長谷川竹葉 輯録
出版者   青山堂
出版年月日 1876
従五位 大関増勤
下谷 原宿町六十八番地
※下谷原宿町(旧:三之輪町)

【華族名鑑:懐中名鑑】明治10年(1877)
著者    安倍為任 編
出版者   安倍為任
出版年月日 明10.11
従五位 大関増勤
下谷 原宿丁六十八番地
※下谷原宿町(旧:三之輪町)
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【改正華族銘鑑 増補】明治11年(1878)7月
著者    長谷川竹葉 編 [他]
出版者   青山堂
出版年月日 明11.7
従五位 大関増勤
神田五軒町
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【皇族華族名鑑】明治11年(1878)
著者    河内静太郎 編
出版者   河内静太郎
出版年月日 明治11
旧 黒羽藩知事
従五位 大関増勤
湯シマ天ジン丁六十一番

【華族類別譜 上巻 皇別】明治12年(1879)
著者    柴山典 編
出版者   屏山書屋
出版年月日 明13.12-17.6
從五位 大關増勤
東京本郷區湯島天神町一丁目六十一番地

【明治華族名鑑】明治14年(1881)
著者    石井孝太郎 編
出版者   深沢堅二
出版年月日 1881
從五位 大關增勤
東京本郷區湯島天神

【明治華族銘鑑】明治14年(1881)
著者    石川孝太郎 著
出版者   深沢良助
出版年月日 明14.5
從五位 大關増勤
東京本郷區湯島天神
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【華族類別譜 上巻 皇別】明治14年(1881)
著者    柴山典 編
出版者   屏山書屋
出版年月日 明13.12-17.6
從五位 大關増勤  嘉永五年一月
住所 東京神田區西小川町一丁目一番地

【華族類別譜 (明治16年)上巻】1883
著者    柴山典 編
出版者   屏山書屋
出版年月日 明13.12-17.6
從五位 大關増勤  嘉永五年一月
住所 東京神田區西小川町一丁目一番地

【華族部類名鑑】明治16年(1883)
著者    安田虎男 編
出版者   栄文堂
出版年月日 明16.10
從五位 大關増勤
住所 東京神田區西小川町壹丁目一番地

【華族類別名鑑 再版】明治17年(1884)
著者    柴山典 編輯
出版者   屏山書屋
出版年月日 1884
從五位 大關増勤
住所 東京神田區西小川町壹丁目一番地
p12【華族類別名鑑 再版】明治17年(1884)
〔画像〕p12【華族類別名鑑 再版】明治17年(1884)
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【華族名鑑】明治33年(1900)
著者    秀英舎 編
出版者   秀英舎
出版年月日 明33.7
正四位 勳四等 子爵
大關 增勤  嘉永五年正月五日
夫人 年子  慶應三年正月元日
從五位
大關 增輝  明治十二年四月廿四日
東京市小石川區久堅町四十五番地

太田原一淸
東京市神田區五軒町十四番地
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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屋敷(下)北豐島郡三の輪村・屋敷(上)神田五軒町十四番地 華族 大田原一淸邸【黒羽藩戊辰戦史資料】大正7年

【黒羽藩戊辰戦史資料】大正7年
著者    小林華平 編
出版者   小林華平
出版年月日 大正7
 p3【黒羽藩戊辰戦史資料】大正7年
〔画像〕p3【黒羽藩戊辰戦史資料】大正7年
 正三位勳三等 大關增勤公 靑年の肖像
 p5【黒羽藩戊辰戦史資料】大正7年
〔画像〕p5【黒羽藩戊辰戦史資料】大正7年
明治四辛未年八月十五日
※1871年9月29日
增勤携家族移テ東京住箕輪私邸

 明治十二年(1879)五月三十日
     萃族大關增勤家令代  梁瀨昌幸
屋  敷 上
町  名 外櫻田
位  置 今町名番地不相分
坪  數 不相分
給収年月 年月不相分

屋  敷 上
町  名 下谷御成道
位  置 今町名番地不相分
坪  數 不相分
給収年月 年月不相分

屋  敷 上
町  名 神田五軒町
位  置 十四番地 華族 大田原一淸邸
坪  數 三千廿五坪七号五夕
給収年月 給年月不相分
     明治四年十二月 增勤の時 上地
     ※1872年1月

屋  敷 下
町  名 北豐島郡三の輪村
位  置 三百三十七番地 平民山本半七郎
坪  數 五千五百八拾坪
給収年月 給年月日不相分 明治九年九月
     淺草吉野町四十四番地 山本半七郎
(備考) 元禄二年(1689) 櫻田より下谷廣小路へ
     御相對屋敷替云々
     (館千太郎家譜にあり)

     天明年(1781) 記錄ノ内
     上屋敷 三千百四拾五坪
     下屋敷 五千五百八拾坪
     外抱地 貳千六百拾壹坪 年貢地
     (瀧田季昭所藏記錄之内)
 p133【黒羽藩戊辰戦史資料】大正7年
〔画像〕p133【黒羽藩戊辰戦史資料】大正7年
大正七年六月二十一日印刷
大正七年六月二十四日發行 非賣品
編輯兼 小林華平
發行人 東京市麻布區網代町二十一番地
印刷人 鷲見九市
    東京市牛込區市谷加賀町一丁目十二番地
印刷所 株式會社 秀英舎第一工場
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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